土佐史研究家 広谷喜十郎

286 春野の荒倉神社(一)-高知市広報「あかるいまち」2008年7月号より-

 春野町弘岡中の荒倉山のふもとには、荒倉神社が鎮座している。かつては吾川郡弘岡三カ村の総鎮守の神社であり、『春野町史』では「この社が、荒倉と呼ばれるような偉容の山塊(略)に宿る水の神の信仰であることは確かであって、事実現在も社の背後に清冽な水が豊かに湧出している(略)旱天には水が不足する。この時人びとは雨を求めてここに祈る。もちろんやがてこの水を溝によって田に引く努力も行われるだろう。そして集落の長はこの神を祀ることによって水を支配し、人びとを統率していく」との由来を述べている。

 周辺には横手古墳、後田遺跡がある。しかも後田遺跡から川の神を祀(まつ)る祭器である古墳時代の土器などが多数出土しているので、六〜七世紀頃には古代村落が成立していたと推測できる。

 竹崎五郎著『高知県神社誌』には、「戦国時代に本山茂辰に、江戸時代に二代藩主山内忠義以降の歴代藩主に篤く信仰され神殿の造営や社領の寄付などがあって保護されていた」とある。また、地元の人々からも篤く信仰されていたとみえ、神社の入口の鳥居の側に縦百四十二センチメートル、横百二十一センチメートル、高さ百五十一センチメートルの大きな手水鉢があって、驚かされる。上部の水溜めを使うために三段の石段が設けられているほどである。手水鉢の裏面には、ここに設置されたいきさつを刻記した銘文がある。

 『春野町史』にはこの銘文を読み下した文が掲載されており、「天保十一年庚子春三月、弘岡闔郷の衆相謀り(略)道一里餘に二旬を費やす。凡そ二万の夫の功を用うと云う」とある。弘岡下の根木谷山から神社まで約四キロの道を二万人の人夫を動員し、大変な苦労をして運ばれたことがわかる。

 荒倉神社の拝殿には、この模様を描写した絵馬「曳石の図」が掲げられている。絵馬は、縦一三二センチメートル、横二四一センチメートルの大きなもので、大石から延ばされた二本の綱を大勢の老若男女が引き、それを多くの人々が周りから眺めている様子や、木遣節を務める者、美装した若い娘も石引きに参加している様子などが見事に描写されている。なお、手水鉢と絵馬は高知市の文化財に指定されている。

二万人に引かれたといわれる手水鉢

●二万人に引かれたといわれる手水鉢


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