土佐史研究家 広谷喜十郎

289 幻の年号「天晴(てんせい)」-高知市広報「あかるいまち」2008年9月号より-

 約三十年前、安芸市土居の知人から、同地の春日神社の境内に天晴元年九月の年号が刻記された石灯籠(とうろう)があると知らされた。

 調べてみると、安芸郡安田町の神峯(こうのみね)神社にも「天晴元年五月」と刻記された石灯籠があり、それには「安喜(あき)土居村」とも刻まれている。

 その後、民俗学者・坂本正夫氏らの調査により、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」と刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。

 『土佐山田町史』にも、田口家の神祭帳や高野家文書の記述を根拠として、慶応から明治に移る間に天晴年号が使用されていることが指摘されている。

 「丁卯」に当たるのは慶応三(一八六七)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。判明している限りでは、天晴という年号が地域的に使われたのは、前年の五月から明治元年までということになる。

 また、石灯籠や手水鉢などには、「氏子中」や「惣中」と記されており、個人の寄進ではなく村の総意によって寄進されていることがわかる。

 石灯籠などの石造物を寄進する場合、早めに注文するはずであり、この年号を使用した地域が広範囲で、しかも短期間に普及していることから、単なる思いつきではないことは明らかである。

 このような動きは、全国的に見られるものだったのだろうか。年号の歴史に関する本を調べてみても、支配階級において天晴という年号が検討されたことは見当たらない。上意下達の厳しい封建体制が敷かれていた時代に、年号という絶対的な物に起こったこの現象は、民衆の世直し願望の一種と考えることも可能かもしれない。

 神峯神社にある石灯籠の年号について、明治末期に高村晴義氏は「慶応三年の事なり(略)京阪の言信(略)此頃の国内の不穏なるにつき年号を改めてこの妖気を攘(はら)ふの議朝廷におこり」と語っている。翌慶応四年に天晴への改元の動きがあることを見越して、年号が刻記されたことの証言である。

春野町西諸木の森神社にある「天政」の年号が記された手水鉢。

●春野町西諸木の森神社にある「天政」の年号が記された手水鉢。


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