土佐史研究家 広谷喜十郎

291 高知城下町と春野(一)-高知市広報「あかるいまち」2008年11月号より-

 新領主として土佐藩に入国した山内氏は、慶長六(一六〇一)年に大高坂山の地に築城し、城下町づくりを始めた。それに伴い、藩内に点在していた中世的な城下町や市場町を可能な限り吸収して形成されたのが、新城下町である。

 『皆山集』の「土佐国名数(とさのくにめいすい)」の高知廿五町の条によると、唐人町、掛川町、弘岡町、種崎町、浦戸町、蓮池町、朝倉町の七カ町をほかの十八カ町と区別している。これらは築城と並行して最も早い時期に設けられた町々である。

 『南路志』に「根元吾川郡弘岡村より引来ル」とある弘岡町(現南はりまや町付近)は、町の繁栄を祈願するための恵美須堂を設けている。当初は、大工、左官、大鋸挽(おがひき)(製材者)など職人の多い町で、これらの職人たちは、城下町づくりの工事に携わった。

 万治二(一六五九)年になると、八百屋町で魚商いをしていた魚棚が、「先年八百屋丁北へ続有之処東西堀御普請ニ付」(『南路志』)という工事のために、弘岡町の西側へ移転してきている。

 さらに、近辺には魚市場のある雑喉場(ざこば)や林産物を扱う納屋堀(なやぼり)があったことからも、この辺りが城下町の台所として大きな役割を果たすようになったことがうかがえる。

 寛永二(一六二五)年、下知方面に外堤を築造し、堤内の耕作に藩の御手先農民を募集して耕作させた。その農民に長屋を貸与し住まわせたところが農人町になったといわれている。また、農民に年給九石ずつ与えたので、一名九石町とも呼ばれている。

 寛永八(一六三一)年に吾川郡芳原村(旧春野町芳原)住人・島崎藤右衛門が、昔は御小人潮田といわれた場所に来住して土地の開発を行い、同十三年には田淵、南新町、中新町、北新町、鉄砲町の五カ町ができ、これらを総称して新町と名付けている。城下町周辺における新田開発と関連して町がつくられたが、これらは農村的性格を帯びた集落が発展して町場化した傾向がみられ、当初に形成された城下町の性格とは、やや異なるところがあった。そのため、農人町や新町はほかの町々が無年貢であったのに対して、地子銭を負担しなければならなかった。

南はりまや町二丁目に立てられている旧弘岡町の案内標識

●南はりまや町二丁目に立てられている旧弘岡町の案内標識


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