土佐史研究家 広谷喜十郎 |
294 土佐の山茶-高知市広報「あかるいまち」2009年3月号より- | |
文保二(一三一八)年に、高僧・夢窓疎石が土佐に来て、五台山のふもとに吸江庵を開いた。疎石は茶にも通じており、吸江庵には貞和五(一三四九)年の銘入りの石茶臼が保存されている。やがて、京都の妙心寺派の傘下に吸江庵、雪渓寺、宗安寺など数多くの寺院が入り、これら禅宗の寺院を中心に土佐に喫茶風習が普及していった。 文和三(一三五四)年と応永四(一三九七)年には、茶の産地である吾川郡吾北地区一帯が吸江庵に寄進されている。『長宗我部地検帳』の「吾川郡小川村」の条に、「茶園有」とあり、本格的に茶畑が設けられ栽培されていたと思われる。 初代土佐藩主山内一豊が土佐へ入国した直後の慶長七(一六〇二)年と翌年に、茶道に通じた僧侶「棒蔵主」に対して各生産地の茶の摘み取りの差配を命じた記録が残っている。土佐郡の場合は「西之山」とあるから鏡、土佐山地区から土佐町あたりまでがそれに該当する。鏡地区大利にも吸江寺系の地福寺があるので、良質の茶を提供していたことになる。 野中兼山の積極的な殖産興業政策に伴い、茶の生産も加速度的に進み、慶安四(一六五一)年になると、吾北地区から伊予にまで茶が移出されている。 藩政後期に記された『南路志』によると、土佐の山間地帯での碁石茶や山茶が盛んに瀬戸内海方面へ搬出されており、「森郷并土佐山郷迄不残讚州川之江并仁尾浦ヘ出ス」とあるように、土佐山地区の山茶まで讃岐へも移出されるようになっている。 現在でも、土佐の山間のあちこちで、昔ながらの釜入れ方式による香りの高い「黒茶」系の山茶が作られている。 県内の各市町村史には民間行事と茶のつながりが紹介されている。例えば、元旦の未明の若水をくむ行事では、「幸いをくむ、福をくむ」など唱えながらくんだ水で、お茶を沸かし雑煮を用意し、家の神々にも供えていた。 五月五日の端午の節句には、子どもの成長を祝い菖蒲茶を沸かして飲んでいた。また、九月九日の菊の節句には、菊花を入れた茶を厄除けのために飲んでいた地域もあった。このように季節感を大切にし、家族の無事を祝ってきたのである。 |
●『土佐国職人絵歌合』製茶の図(高知市民図書館蔵) |