宗安寺の創建は中世にさかのぼる。京都五山の名刹・東福寺にいた雙峰和尚が開山したもので、本尊は釈迦如来像である。五台山の吸江庵(寺)、長浜の雪渓寺と共に土佐臨済宗妙心寺派の三大禅寺として発展していくことになる。
戦国時代には、この方面に進出してきた本山梅慶がこの寺を保護し、その逝去の折には、ここで盛大な葬儀が行われ、四十九日の法要は対岸の円行寺で営まれた。
その後、本山氏を滅亡させた長宗我部元親が朝倉の地を支配すると、宗安寺を保護するようになり、元親の親族につながる吉良家出身の如渕がこの寺の住職となった。
この人は京都へ出て東福寺や妙心寺で修行し、帰国後は、吸江庵の忍性や雪渓寺の天室(質)と共に「南学三叟」といわれ、長宗我部家に大きな影響を与えていた。ところが、長宗我部家の後継者争いの問題に巻き込まれ、処刑された。これが有名な「七人ミサキ」伝承につながっているとの説がある。
現在の宗安寺の住職は『吉良物語』(復刻版)の解説文にある「真西堂如渕小伝」に目を付け、如渕はその後も生存していたとして京都に行き取材している。
『雲居年譜』によると、如渕は難を逃れて幡多郡中村にある太平寺に身を寄せ、一条家の家臣の子孫・雲居を弟子にしたという。
やがて、二人は京都に出て東福寺永明院に迎えられた。そして、豊臣家の再興を計り行動していたが、関ヶ原の戦いの後に大徳寺高桐院に入った。如渕は賢谷宗良と名乗り、元和三(一六一七)年に大徳寺の百五十九世にまで上りつめている。大徳寺の史料に「百五十九世賢谷(略)土州ノ人、俗姓吉良氏」とあり、『雲居年譜』の内容と符号する。
江戸時代に入り、宗安寺は、初代藩主山内一豊の義子である吸江寺住職の湘南との縁で山内家からもあつく保護されるようになる。
宗安寺の前を流れる川を「鏡川」と名付けたのは、元禄時代の五代藩主山内豊房公である。この川が、我が姿を映す鏡のようにきれいであって欲しいとの願いが込められているように思われる。一帯は、川上不動尊の森として鏡川清流保全条例により自然環境保全区域に指定された、緑豊かな地でもある。
●山懐に抱かれた宗安寺の門。
目の前には清流鏡川が流れている。