少年時代の弥太郎は、棒や竹ぎれを持って近所の農作物を荒らすなど、いたずら小僧とそしられることがあった。その一方、機知に富む行動で人々を驚かすこともあった。このわんぱく小僧を学問の道に導いたのは、賢母といわれた母・美和で、内職をしながら厳しくしつけていた。七歳のころには、大叔父岩崎弥助(硯山)について習字を学び、次いで母方の祖父小野慶蔵に師事し、読み書きを学んでいる。
豪放な弥太郎も母親に対しては、生涯頭が上がらず、それについての逸話が数多く語られている。後に、出世して大金持ちになったころ、美和が酒癖の悪い弥太郎をいさめるため、粗末な木綿の着物でたすき掛けに前掛けという、井ノ口村時代そのままの姿で酒宴の席に現れた。さすがの弥太郎も平身低頭して謝ったという逸話がある。
弥太郎は十二歳になると、家老五藤家の住む土居郭中にある学舎で小牧米山に師事する。この門下で、弥太郎は、郷中の岩崎馬之助、宇田猛児(たけじ)と並んで三神童と称せられるほど学問に精励するようになっている。弘化四(一八四七)年の秋、藩主が藩内を巡視した折、家老宅で宿泊した。弥太郎は、恩師小牧米山、岩崎硯山、学友馬之助と共に藩主を歓迎する詩を献上し、嘉賞を受けている。
次に、弥太郎が教えを受けたのは、安芸郡安田村出身で、伯母の夫である乗光寺の岡本寧浦(ねいほ)である。彼は朱子学が学問の本流である時代に、大坂において大塩平八郎らと陽明学をも学び、土佐の学界に自由な空気を取り入れた異色の学者として知られていた。また江戸の安積(あさか)艮斎(ごんさい)らと共に師友の関係をもち「経書の虫」といわれるほど学問好きでもあった。後に、十三代藩主山内豊熈(とよてる)に信任され儒臣となる。やがて、高知城下町で家塾を開いて、武市瑞山、間崎滄浪(そうろう)、清岡道之助ら千人余りを教育している。
弥太郎は十五歳の時に寧浦の紅友塾に預けられたが、その才能が認められ、師匠が養子に望んだこともあった。
二十一歳になった折、布師田出身の奥宮慥斎(ぞうさい)の従者として江戸へ行くことになる。出発前、生家近くの妙見山・星神社の扉に「吾れ志を得ずんば再びこの山に登らず」と大書している。
●多くの偉人を輩出した
寧浦の塾跡地(桜井町)