『山内氏時代史初稿』の慶長十五(一六一〇)年九月の条に、「山内忠義竹林寺ノ僧空鏡ヲシテ河中(こうち)山ノ文字ヲ改メシメ高智(こうち)ト称ス」とある。河中山での築城中、二代藩主忠義が空鏡和尚に頼み、山名を高智山に改名したのである。
さかのぼって天正十六(一五八八)年、前代の長宗我部元親が岡豊城からこの地に移転した。ところが、「四方皆大河にて、しかも北に洞島の渕(略)東に太布が渕、籠が渕、知寄など云、底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶ所にあらず、其上奥山より流れ出る水つよく、堤崩れ、町屋へ洪水入る事度々なりしかば、貴賎上下、こはいかにせんとぞ悲しみける」(『土佐物語』巻十五)というありさまで、十九年には、元親は城を放棄して浦戸城へ移転せざるを得なくなった。
慶長六(一六〇一)年に土佐に入国した新領主山内一豊は、再び大高坂山に築城を開始、同八年に入城式を行い、河中山と改名した。築城工事は着々と進行していったが、城下町では相変わらず洪水に襲われ、町づくりは困難を極めていた。
そこで山内忠義の代になって、竹林寺の空鏡和尚に依頼して、河中山から高智山へと改名したのである。
空鏡和尚は、忠義との問答のなかで、「高智とは、大聖文珠の浄土を申とかや、抑、城地を何故佛土に比しけるぞと事の意尋れば、此の城より一里計東に山あり、五臺山金色院竹林寺と号す(略)されば此城地も文珠擁護の地と称して、高智山と名付たり」(『土佐物語』)と、改名の理由を述べている。高智とは、文殊菩薩加護の土地を意味している。五台山から見て西にあるこの地を西方浄土になぞらえ、築城や町づくりに、文殊様の高い知恵を借りたいとの強い思いがあったようである。河中と高智とは同じ字音であり、そこからさらに現在の表記・高知に転じた。
やがて、高知城が完成、元和七(一六二一)年時点で「土佐守殿借銀今の分にては御身上相果つべく候」(藩志内篇)と言わしめるほどに切迫していた財政状況を、藩政改革によって見事に立て直した。来年は「高智山四百年」に当たる。高知の原点に帰って考える必要がありそうである。
●空鏡上人像(五台山 竹林寺蔵)
写真提供(財)高知市文化振興事業団