江戸へ出た岩崎弥太郎は、奥宮慥斎(おくのみや ぞうさい)の紹介で、著名な安積艮斎(あさか ごんさい)の塾に入門する。しかし一年近くたった折、父・弥次郎の奇禍の知らせを受け、すぐに帰国せざるを得なくなった。父が酒席で地元の庄屋と争ってもめ事を起こし、重傷を負ったというものである。
母の美和が田野浦の郡奉行所に訴え出るが、酒席の喧嘩だとして相手にされなかった。安政三(一八五六)年の正月、弥太郎は正式に郡奉行所に裁決を求めて訴え出た。しかし、なかなからちが明かず、腹を立てた弥太郎は奉行所の柱に「官は賄賂をもって成り、獄は愛情に因て決す」(原文は漢文)と大書するなどを繰り返し、官の侮辱罪として捕縛され、投獄された。
彼は獄中で、同牢の人に算術や商業の面白さを教えてもらう。それが、後の実業界への進出に役立ったとも伝えられている。
弥太郎の入獄は七カ月にも及び、さすがの彼も焦りを感じ、知人に血書を送ったり、間崎滄浪(そうろう)らにも出獄できるように手配を頼んだりした。郡奉行所も、結局は喧嘩両成敗の処置を取った。翌年の四月に、弥太郎は安芸郡から追放され、高知城下と四カ村(潮江、江ノ口、小高坂、井口)への禁足の処分を受けた。
弥太郎は、福井に住んでいた義兄・吉村喜久治の計らいで、神田村の三所神社近くの甲藤楠作の一室を借り受けている。地元の研究家・甲藤勇氏は「鴨田農協だより」(十一号)の中で、家老・桐間将監(きりま しょうげん)の家来の近藤楠七の家としている説もあるが、戸籍の出てくる甲藤楠作宅が正しいとし、「東京の岩崎家からたびたび金を送ってきていたと伝えられている」と述べている。
甲藤氏は楠作について、「弥太郎が父の難を救うため、急きょ江戸から帰り、不慮の災厄にかかって入牢にひきつづき禁足の処分を受けたことをききその孝徳と義烈に感じ(略)祭礼のときには、無理に弥太郎を同伴して近くの人々に紹介するなどした」と、義侠心の強い人物であったと述べている。
弥太郎が江戸で有名な学者の下で学んだ人物だと知れると、城下の有名人が彼を訪ねた。後に坂本龍馬の下で活躍した近藤長次郎や池内蔵太らも、門人であったという。
●弥太郎の流罪地を
紹介した掲示板(神田)