土佐史研究家 広谷喜十郎 

302 吉田東洋と弥太郎 -高知市広報「あかるいまち」2009年11月号より-

 岩崎弥太郎が神田村に流罪になっていたことは、江戸の師匠・安積艮齋(ごんさい)には伝わっていなかったようである。なぜならそのころ、艮斎は土佐藩士松岡毅軒(きけん)に、わたしが責任を持って面倒を見るから、弥太郎の復学を勧めるように依頼する書簡を送っている。それだけ弥太郎は艮斎から将来を期待された人物だったといえる。

 また一方で、弥太郎にも強い向学心があった。鷲尾山を越えて長浜村長楽寺の月暁(げっきょう)和尚をよく訪ね、作詩の勉学に励んでいたという。月曉和尚に依頼し、長浜に居していた吉田東洋に自作の詩を送り、批評してもらっていたとの説もある。また、東洋の「少林塾(鶴田塾)」の塾生であった後藤象二郎の作詩した「貿易論」なるものが、誰かの代作ではないかと東洋が見抜き、弥太郎の作であることが分かったとの説もある。諸説あるが、ともあれ弥太郎の文章力が東洋の目に留まり、入門を許可されたといわれている。

 安政四(一八五七)年十一月、弥太郎は「帰住御免」となり、ようやく安芸郡井ノ口村へ帰郷することができた。その後、一年をかけて二十三件もあった田地係争事件を片付けている。そして再度、高知城下ヘ行き、福井村の義兄・吉村喜久次宅へ身を寄せて、藩の仕置き役として復帰した吉田東洋の下で、藩の下役人として仕えることになった。

 安政五年に、東洋は新おこぜ組を率いて強力な藩政改革に乗り出した。紙、椎茸、樟脳などの国産品の統制強化を行い、商品生産を奨励して移出税による収入増加を図った。この重商主義政策は、着々と成果を上げ、文久元(一八六一)年には、それまでの大赤字の財政状態が一変し、銀二千貫余の黒字となった。

 さらにペリー来航以降の開国に伴い、東洋はそれに対応すべく、安政六年に弥太郎と下しも許もと武兵衛を長崎へ派遣し、椎茸などの国産品の見本を送っている。

 東洋の『参政録存』の九月の条には、「弥太郎草案御目付へ廻す」とある。長崎へ行く前に、弥太郎には何らかの対外貿易策の腹案があったようである。

失職中の東洋が開いた少林塾(鶴田塾)跡(長浜)

●失職中の東洋が開いた
少林塾(鶴田塾)跡(長浜)  

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