慶応三(一八六七)年三月、岩崎弥太郎は藩の重役・福岡孝弟(たかちか)の推薦により、開成館貨殖局の土佐商会長崎出張所の下役として、再び長崎へ赴任している。
弥太郎は、文久元(一八六一)年郷士の家格に復活したとはいえ、低い身分にあった。
後藤象二郎の側近・池道之助の日記では、当初は「岩崎」とか「弥太郎」と呼び捨てに書かれていたものが、六月になると「岩崎弥太郎殿」「岩崎様」と敬称が付されており、このころから彼の役割に大きな変化が起こったことが分かると『岩崎弥太郎伝・上巻』(伝記編纂委員会)に書かれている。
長崎では、坂本龍馬の海援隊が土佐藩の機関の一つとして活動していた。また、弥太郎の勤務していた長崎出張所も、海援隊の運用資金の調達、船舶の出入り事務などに関与していたことなどから、弥太郎と龍馬の間には密接な関係が生まれた。
同年四月二十三日夜、龍馬らが乗船していたいろは丸が、紀州藩船・明光丸に衝突され沈没するという事件が起こる。弥太郎は龍馬とよく交流しており、彼の日記には龍馬のことがたびたび出てくる。弥太郎の立場上、金銭に絡む記述が多いのは当然であるが、時には、酒を飲みながら意見を交換していたという記述も認められる。
六月二日の条に、「早朝紀州償金ノ帖面ヲ相調、到後藤公、与坂本良馬密話」とあるように、いやが上にも龍馬とのつながりを強めていくのであった。弥太郎が龍馬から受けた影響は、極めて大きかったといえる。
長崎での仕事ぶりが認められた弥太郎は、異例ともいうべき早さで、五月二十六日に主任の地位に就く。さらに、後藤象二郎と龍馬が大政奉還促進のために京都へ行くことになり、六月七日には、長崎での全指揮権を委任されるまでになっている。
六月九日に、二人が出港した折、「余及一同送、余不覚流涕数行」(『日記』)と、気の強い弥太郎も、後藤らが決死の覚悟で京都へ行く姿を見て、思わず涙を流して見送っている。この船上で、近代日本のあるべき方向を示した「船中八策」が龍馬らによってまとめあげられたのである。
●天神橋のたもとにある
後藤象二郎誕生地の碑(与力町)