土佐史研究家 広谷喜十郎 

305 弥太郎、九十九商会へ -高知市広報「あかるいまち」2010年3月号より-

 慶応三(一八六七)年六月には、岩崎弥太郎は長崎出張所経営の全権を任されていた。幕末の政情不安が増大する中で、洋式艦船や銃などの購入を図るための長崎での仕事は、外国人相手だけに何かと大変であった。同月二十九日には長崎丸山でイカルス号のイギリス水兵が二人殺害される事件が起こり、海援隊に嫌疑が掛かったために、その対応もしなければならなかった。この事件は後日、他藩の人間が犯人と判明し、解決したが、同時期に海援隊のいろは丸沈没事件も発生し、その事後処理にも弥太郎が当たっている。当時の多忙な日々については、弥太郎の日記から知ることができる。

 肝心の土佐商会の活動も、海援隊の行動によって振り回されることが多くなり、弥太郎は海援隊に対立的な感情を持つまでになる。九月十二日夜の日記に、「過日来海援隊ノ引合、商会ノ盛衰ヲ深思発シ、何分心気不快」と記述しているほどである。それらのことが重なり、主任を辞め長崎を一時的に退去することになる。

 再び長崎に帰ってきた弥太郎は、十一月二十八日に、本庁からの通達により新留守居組に昇格して、上士クラスの一員となった。

 明治元(一八六八)年閏四月になると、藩庁は長崎の土佐商会を規模縮小のために大阪に移転させた。残務処理を命じられた弥太郎はその任務を果たし、翌正月には大阪の土佐商会に赴任している。

 平尾道雄氏は、その後の大阪での活躍ぶりを『維新経済史の研究』の中で、「長崎におけると同じく端倪(たんげい)すべからざるものがあった。外商との取引や起債、または内国諸藩との取引や起債、または内国諸藩との交易周旋に縦横の才略を試みつつあった」と高く評価している。弥太郎は、その仕事ぶりを認められ御馬廻組に昇格し、権少参事として大阪での財務を任される。

 しかし明治政府の意向を受けた大阪府の指導で、明治三年九月に土佐商会は解散させられた。そこで十月に九十九商会を設けると同時に弥太郎は社長に就任し土佐屋善兵衛を名乗る。そして洋式の藩船「夕顔」、「鶴」、「紅葉賀」を借り受けて、東京・大阪・神戸および高知間の海運業に乗り出した。

仁井田神社所蔵の「夕顔艦絵馬」。高知市有形文化財に指定されている。

●仁井田神社所蔵の「夕顔艦絵馬」。
高知市有形文化財に指定されている。  

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