土佐史研究家 広谷喜十郎 

306 弥太郎と三菱汽船会社 -高知市広報「あかるいまち」2010年4月号より-

 明治三(一八七〇)年、岩崎弥太郎は藩営の開成館から離れて独立し、九十九商会の社長になった。ここで弥太郎は一時的であるが、土佐屋善兵衞という商人名を名乗る。武士身分から離脱して、実業家となった心意気を強く示したものであろう。

 同五年、弥太郎は九十九商会を三川商会と改め、県庁から樟脳事業や生糸事業などの払い下げを受ける。そして、翌年には三菱商会と改称し、同七年四月に本拠地を東京に移転させた。

 同年七月には、台湾への軍事介入に際して、政府から軍事物資や兵員の輸送を命じられ、大いに利益を上げることができた。そのころ、社名を三菱汽船会社と改称している。

 その後も、弥太郎は外国の汽船会社と激しい競争を繰り返し、日本の主な沿岸航路から外国船を駆逐し、同八年には上海定期航路を開いた。そして、アメリカの太平洋郵便会社の日清間航路を買収するまでに発展している。

 同十年の西南戦争でも、軍事輸送を命じられた。このようにして、弥太郎は日本における近代的海運の創始者としての地位を確保していくのである。

 一介の野人・岩崎弥太郎は、三井、住友などと肩を並べ、一代にして新興「三菱財閥」の基礎を固めた。ほかの財閥の多くは、徳川三百年間の中で蓄積してきた資金を元手に、明治時代に大もうけをして発展したものである。しかし、弥太郎の場合は、裸一貫から出発しての飛躍である。それは一大奇跡といえるかもしれない。

 弥太郎の性格は、直情径行の傾向があり、ときに強引な行動をとって失敗したり、他人から攻撃されたりすることも多かった。彼の計画と行動には、大胆不敵さが目立つ。不可能を可能にしようとする不屈の闘志が、失敗しても、立ち直ることを可能にしてしまうのである。

 また、三菱三傑といわれた「川田小一郎、石川七財、森田晋三」や、豊川良平、土居市太郎ら優れたブレーンに、弥太郎が支えられたことも忘れてはならない。

 なお、石川七財は、藩命により土佐商会の内部調査に行ったが、弥太郎の情熱にほれ込み、すぐに九十九商会に入ったという。人材を集めるのも彼の才能である。

後の日銀総裁・川田小一郎誕生地の碑(元町)

●後の日銀総裁・川田
小一郎誕生地の碑(元町)  

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