土佐史研究家 広谷喜十郎 

309 権平兄さん -高知市広報「あかるいまち」2010年7月号より-

 龍馬の兄である坂本権平は、文化十一(一八一四)年生まれである。嘉永四(一八五一)年に、父・八平が病弱を理由に家督を譲りたいと藩庁へ願い出て、父の跡目を継いだ。権平は龍馬より二十一歳も年長であり、当時まだ十七歳の龍馬にとって、兄は父親的存在であった。

 土居晴夫著『坂本龍馬とその一族』(新人物往来社)によると、権平が七歳の時、藩の年頭行事である御馭初(おのりぞめ)の予行演習で、馬場筋において乗馬し走り通したことが問題になったと紹介している。

 この行事は、藩主の前での閲兵式(えっぺいしき)で、よろいかぶとの武士たちが本町筋を走り抜けるもので、下級武士の郷士たちも参加が認められていたが、目立つ行動はしてはならなかった。たとえそれが、予行演習であったとしても、それを郷士の子どもが走り抜けたのはけしからん、というのであろう。「幼少のものが騎乗を許されていないのに、場所柄もわきまえない振舞いは不心得の至りである」と、八平は藩庁に呼び出され、きついお叱りを受け、謹慎十日間と、藩の役目も退任させられてしまったという。

 このことは権平にとって、終生忘れることのできない事件として、封建時代の身分制の不都合さを強く意識するものであったろう。

 後に、弟の龍馬が脱藩行為を繰り返しても、決して見捨てることなく、何かと資金援助したり、温かい態度で接していた。

 文久三(一八六三)年一月に、権平は臨時御用で京都ヘ行き、同年十月まで滞在する。このころ龍馬は、勝海舟塾に参加して神戸海軍操練所をつくるために働いていた。同年に、海舟の尽力により脱藩罪を赦免されて京都へ赴き、兄と面会することができた。

 さらに、慶応三(一八六七)年に長崎で海援隊を組織した折、権平の養子となった坂本清次郎(権平の娘・春猪の夫)が、脱藩して参加した。龍馬は、坂本家に災いが及ぶことを恐れて、藩の重役・後藤象二郎に相談し、「兄さんの家ニハきずハ付まいと申事なり、安心仕候」と、乙女姉さんに手紙で連絡している。手紙の内容から、坂本家の兄弟愛の一端が理解できる。

龍馬の兄・坂本権平(個人蔵 写真提供:県立歴史民俗資料館)

●龍馬の兄・坂本権平
(個人蔵 写真提供:県立歴史民俗資料館)  

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