坂本龍馬は、十二歳まで「坂本の鼻たれ小僧」だったといわれている。母親が早死にしたので、乙女姉さんが身の回りの世話から、学問・武芸の指導にまで当たったといわれている。乙女姉さんは「男勝りの気性で、剣術は切紙(目録一種)の腕前、馬術、弓術、水練も得意だった(略)また経書、和歌はもとより琴、三味線(略)などまことに多芸多趣味」(土居晴夫著『坂本龍馬とその一族』)の人だった。
ある時、泳げない龍馬を近くの鏡川で、泳げるようになるまで岸へ上がらせなかったという話は有名である。また、小舟に乗せて鏡川から種崎にある義母の実家まで何時間もかけて一緒にこいで行ったという話も伝えられている。
龍馬は、父親の厳しいしつけと乙女姉さんの深い愛情に包まれ、心優しい、たくましい青年に成長していった。
安芸郡安田村の郷士・高松順蔵に嫁いだ長姉・千鶴姉さんの存在も忘れることはできない。高松順蔵は、幼少より学問を好み、後に江戸へ出て経書を習得。高知城下では、絵画や書を学ぶとともに、長谷川流居合術を修業し、その達人にまでなっている。また、歌人としても有名だが、藩主・山内容堂からの出仕の求めには応じなかった。
勤王の志士たちもその学風を慕って、数多く参集したともいわれる。家の跡目は弟に譲渡し、悠々自適の生活を送っていた。夫婦仲はきわめて円満であった。龍馬は、この義兄の邸宅へもよく遊びに行き、縁側から海を眺めていたと、伝えられている。
龍馬が乙女姉さんに宛てた手紙の中に、「私がお国ニて安田順蔵さんのうちニおるよふな、こゝろもちニて」と、述べているように、龍馬にとっては義兄が大きな存在であった。そして、かわいがっていた龍馬だからこそ、龍馬の脱藩ルートを記述した書類を、順蔵が写して保管していたのもよく分かる。また、千鶴姉さんも龍馬が江戸へ修行に行った折、お守りを送ったりしている。
明治四(一八七一)年、明治政府は跡継ぎを残さなかった龍馬の名跡が絶えるのを憂慮し、二人の長男であり、海援隊で活躍していた高松太郎に継がせた。そのため、太郎は龍馬の諱(いみな)「直柔」の一字をとって、「坂本直」を名乗っている。
●丹中山(たんちやま)にある
乙女の墓(山手町)