土佐史研究家 広谷喜十郎 

312 幕末の佐野屋萬助 -高知市広報「あかるいまち」2010年10月号より-

 本年は岩崎弥太郎が何かと話題になっているが、今回は同時期に土佐経済界で活躍した佐野屋萬助なる人物を紹介してみたい。

 大正十四(一九二五)年に刊行された雑誌『土佐史壇(十三号)』に、郷土史家・武市佐市郎氏が丹紫海漁郎の名前で『土佐商界の竒傑・佐野屋萬助翁』を書いている。

 佐野屋萬助は、安芸郡安芸村(現安芸市)の出身。少年期は、高知城下新市町(現はりまや町二丁目)の叔父・佐野屋文兵衛宅で行商の見習いをしていた。佐野屋は穀物や諸種などの物品を商う傍ら、椎茸や木炭の生産にも関係していた。十六歳のころには香美郡から幡多郡までの椎茸山や木炭山の監督を任されるまでになる。

 萬助が十九歳の時に、叔父が死亡し事業をすべて引き継いだ。萬助は、浦戸の三壽丸に産品を積載して、大坂(現大阪)へも盛んに移出させ、手広く商売を行った。大坂では、幕府の御用材木商・信濃屋和三郎と親密な交際を始めた。萬助は信濃屋を連れて土佐へ戻り、材木町の諸木屋と共に土佐の山地で製材業を営み、大坂や山陽方面へ移出させた。

 ところが、安政大地震に遭い一時は破産状態になってしまう。それでも何とかして、事業を再開しようと考えていた。

 そんな折、ペリー来航で長崎貿易の気運が高まる。萬助はすぐに長崎へ赴き、外国人と接触して樟脳、茶、生糸などの交易を図った。さらに、土佐藩庁へ納入するためのライフル銃まで輸入している。また、政変で都落ちした三条実美ら尊王攘夷派の公卿が太宰府を訪れ、そこに諸国の志士たちが集うと、萬助も彼らと交流を行い資金援助するなど活動している。

 土佐藩が北海道の北見方面の統治を任されると、明治三(一八七〇)年には後藤象二郎の蓬莱社(ほうらいしゃ)と提携し、坂本龍馬が使っていた羽衣丸を購入。三島屋亀助と共に土佐藩開拓使に随行し、北海道への海運業も行っている。また、東京にも回漕店を設けるまでとなった。だが、大阪淀川の河岸で運送船が火災に遭ったり、悪徳商人に財産を横領されたりして、やがて完全に破産してしまった。

 その後は、高知市大川筋で余生を送り、明治四十三(一九一〇)年に八十一歳で逝去した。

新堀公園内に新堀公園内に設置されている新市町(しんいちまち)の案内標識

●新堀公園内に設置されている
新市町(しんいちまち)の案内標識  

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