土佐史研究家 広谷喜十郎 

314 種痘(しゅとう)ことはじめ -高知市広報「あかるいまち」2010年12月号より-

 疱瘡(ほうそう)(天然痘)の予防接種である牛痘接種法は、一七九六年にイギリスのエドワード・ジェンナーによって作り出された。それが移入されるまでの日本では、有効な予防策はなく流行が過ぎ去るのをただじっと待つしかなかった。

 嘉永二(一八四九)年の夏、ドルトレ号によって運ばれてきた牛痘種苗を用いてオランダ商館付医師オット・モーニッケが牛痘接種に成功。この痘苗が全国的に普及することになる。

 これに目を付けた大坂(現大阪)の適塾の医師・緒方洪庵(おがたこうあん)は除痘館を設けた。その当時除痘館にいた原佐一郎の門下生に須崎の豊永快蔵(とよながかいぞう)がいた。そこで種痘技術を身に付けた快蔵は、郷里での普及を決意する。快蔵は泉州境浦(せんしゅうさかいうら)から乗船、阿波沖に来た時、難破して所持品のほとんどを失ったが、痘苗と器具だけはしっかりと守り抜いた。帰郷後、種痘を知人の子どもたちに行ったところ、治療に訪れる人々が増加したという。

 『寺田思斎(しさい)日記』によると、嘉永三(一八五〇)年四月ごろから高知城下でも種痘法が何かと話題になり、普及していったようである。だが、世間一般では種痘に対する不信感や恐怖感が根強かった。その後、医師の献身的な尽力により種痘が行われ、数多くの人々の生命が救われた。

 緒方洪庵の適塾の門人帳に、高知城下の小谷純静、徳弘敬之助、和田敬吉、細川春斎、山田町の横矢卓造、横矢平格の名前がある。

 洪庵の義弟の緒方郁蔵(いくぞう)は、嘉永三年に種痘書『散花錦嚢(さんかきんのう)』(二巻)を刊行。大坂で独立して独笑軒(どくしょうけん)を設立する。その門人八十四人中、土佐出身者二十六人と最も多いのが注目に値する。その中に、藩医・深尾玄隆、潮江村の島村良次、種崎町の細川春斎、紺屋町の和田敬吉、廿代町の田中順立、本町の井上淡蔵、浦戸町の壬生寛之助、江ノ口の箕浦龍蔵がいた。

 『緒方郁蔵功績書』に「土佐藩郁蔵ニ俸禄禄二十口ヲ給シ翻訳ヲ嘱託ス、慶応二年土佐藩開成館ヲ建テ(略)郁蔵ヲ召シテ医局ノ教頭ト為ス、九月郁蔵職ニ高知ニ就キ熱心精励、講義、翻訳、診療ニ従事シ上下ノ信任ヲ博ス」とある。このように、土佐の医学界に大きな影響を与えたのである。

●開成館の図面が描かれた開成館絵図
(『開成館跡調査報告書』より)  

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