土佐史研究家 広谷喜十郎 

315 医師・経東(きんとん)らの動き -高知市広報「あかるいまち」2011年2月号より-

 岡本真古(まふる)著『土佐畸(き)人伝』に、経東は「朝鮮人の良医なり」と紹介されている。

 彼は、文禄二(一五九三)年「朝鮮の役」の折、長宗我部元親によって捕虜として連れて来られた。高岡郡新居村(土佐市)に住み、山野にある薬草採集を心掛け、独特の薬を作り出した。

 そして、「遂に朝鮮と日本と土地ひとしからず、人性また異なる所あるを悟りて後、薬剤をあやまらず、死を生かし癈(はい)を起こすの功多しと言えり」(『土佐国人物誌』)との名医ぶりを発揮するまでになっている。そして、その名治療ぶりもいくつか紹介されている。

 長宗我部元親の先祖は、渡来系の秦(はた)氏でもあり、元親は経東をあつく信頼していた。そして、豊臣秀吉のいる京都へ上る際は、いつも彼を同伴していた。

 京都でも経東の名医ぶりは評判となったが、それに嫉妬(しっと)した医師が毒を盛り、経東は哀れな最期を遂げた。

 経東が土佐在住の折、粉川春与(こかわはるよ)という門人がいた。春与は経東の医術を身に付け、それを子孫に伝えている。彼は、紀伊国粉河寺の元僧侶で元親に仕えて土佐の布師田村(高知市)に在住していた。春与の七代目の子孫である粉川玄晁(げんちょう)は、経東の直筆の医案を所持していて、その全文が『土佐畸人伝』に紹介されている。また、『高知県史・古代中世史料編』には、粉川家所蔵の経東に関する古文書も収録されている。

 さらに、朝鮮慶尚道から元親に連れて来られた、秋月城主・朴好仁(ぱくほいん)らは、浦戸城下に住み「湯薬(とうやく)師朴好仁」の看板を門前に掲げていたという。「湯薬」とは煎じ薬のことで、彼も経東と同じように、薬草を採取して薬を調合していたと思われる。

 後に、慶長六(一六〇一)年、山内一豊が土佐に入国後、高知城を築城すると、朴好仁らは城下唐人町に移住し、六十八座の豆腐製造の専売特許を受けている。

 これらの動きは、石原明著『日本の医学』の「朝鮮の役を契機として(略)明や朝鮮の新しい医学が紹介され、これらが基礎となって(略)近世医学が隆盛となるわけである」と合致している。

※訂正※

文中「文禄二(一五五三)年」は、「文禄二(一五九三)年」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。

朴好仁らが豆腐商いを営んだことに由来する旧西唐人町の看板。(唐人町)

●朴好仁らが豆腐商いを営んだことに
由来する旧西唐人町の看板。(唐人町) 

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