土佐史研究家 広谷喜十郎 

316 龍馬と後藤象二郎 -高知市広報「あかるいまち」2011年3月号より-

 後藤象二郎は、吉田東洋亡き後の藩政に復帰した山内容堂に信用され、幕末史の表舞台に大きく登場した。彼は西洋式航海術を修め、「外国と積極的に貿易すべきだ」と唱えた叔父の東洋に大きな影響を受けていた。

 彼が中心となり、慶応二(一八六六)年に、殖産興業と富国強兵を進めるための中枢機関である開成館を、高知城下・九反田の地に設けた。そこには医局や訳局を置き、西洋医学を研究させたり洋書の翻訳をさせたりしていた。

 同年七月、象二郎は土佐商会の経営の監督や汽船購入の任務のため、長崎へ出掛ける。八月末には上海にまで行き、汽船三隻を購入している。そんな折、長崎滞在中に、彼は龍馬と劇的な会見をした。

 龍馬が率いる亀山社中の若者たちの中には、象二郎が土佐勤王党を厳しく弾圧した張本人であるため、「見つけ次第斬きってしまえ」という声が強くあった。

 また龍馬から姉・乙女にあてた、翌年六月二十四日付の手紙によると、「御国の姦物(かんぶつ)役人ニだまされ候よふ御申こし」とあり、乙女も龍馬に対し、象二郎に近づくのを抗議していたことが分かる。

 普通ならば、親友の武市瑞山を切腹させた人間と握手することは考えられない。しかし龍馬は、象二郎が日本のために役立つ人間と信じ、行動を共にすることにした。そこで、「後藤ハ実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候」と、乙女に釈明している。

 その後、長崎での英国水夫殺害事件で、土佐海援隊員に嫌疑がかかった。象二郎はパークス公使の脅しにも屈せず、再調査の約束を取り付けている。また、紀州藩船明光丸といろは丸との衝突事件の際にも、龍馬からお龍にあてた手紙に「後藤庄次郎が紀州の奉行に行き、やり付けにより」(庄次郎は象二郎のこと)とあるように、象二郎は大活躍している。

 慶応三年六月に、象二郎は龍馬らと「薩土盟約」を結び、討幕路線を引いている。その一方で、二人は公議政体に向けての「船中八策」を夕顔丸の中で書き上げ、江戸幕府の幕下ろしである「大政奉還」の根回しまでやってのけたのである。

龍馬と象二郎が船中八策を書き上げたとされる「夕顔丸」の模型(三翠園)

●龍馬と象二郎が船中八策を書き上げた
とされる「夕顔丸」の模型(三翠園) 

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