桂浜駐車場の入り口近くの山麓の道路沿いに、「桂浜学園」と刻記した石碑がある。
昭和六(一九三一)年に刊行された、大久保千涛(ちなみ)著『吾南の名勝』の中に、「桂浜学園」の項目があり、川田鐡彌と桂浜学園とのつながりを知ることができる。高知市久万地区出身の川田が、この碑を建立し、高千穂学園(現高千穂大学)を創設したのはなぜだろうか。
高千穂学校(学園)が大正八(一九一九)年七月に建立した「浦戸城址」の石碑を読むとその理由が分かる。石碑には、明治二十八(一八九五)年、二十二歳のころ川田が浦戸を訪れた時に詠んだ漢詩がそのまま刻記されており、題字は東郷平八郎である。この漢詩については、高千穂大学教授・渋谷栄一氏の通釈を引用させてもらう。「明治二十八年七月、川田鉄弥が第五高等学校(現熊本大学)在学中の夏休みに郷里土佐に帰郷した折、浦戸城跡を船中より望み、後日改めて川を下り、途中浦戸湾の風景を叙しながら、想いを土佐の歴史、殊に旧城主長宗我部元親の商業の振興に尽くして途半ばにして已やんだ悲憤に想いを致し、自ら教育を重んじ英才を育成しなければそれを晴らすことはできないと、将来教育者となり学校を建設すべき決意を述べている。川田鉄弥二十二歳のときの撰文である」とある。漢詩は、格調高く彼の非凡さを物語っており、そこには彼が教育を志すに至った決意が述べられている。
そしてその決意どおり、彼は明治三十六年に高千穂小学校を創設する。それから幼稚園、中学校を順次開校させ、大正三年には私学としてはわが国最初の高等商業学校を開設し、一貫教育を行う高千穂学園を完成させた。
『吾南の名勝』には、「川田氏は此城山が歴史的に将又地理的に更に植物的に学ぶべき点が多いので、此名称を附したやうに思はる」とある。浦戸城跡の城山全体が、学園と呼ぶ程に学ぶ点の多い場所であるとして、川田はその名称を付した石碑を建てたのである。彼の建学精神の原点が桂浜学園にありというのであろう。桂浜大鳥居の右手山沿いにある、もう一つの川田が建立した石碑「古キ樹木ハ此地ノ歴史ヲ語ルモノナレバ之ヲ愛護セラレタシ」もそれを物語っている。
●桂浜公園駐車場西に建つ
桂浜学園石碑(浦戸)