文久二(一八六二)年三月、坂本龍馬は土佐を脱藩して諸国を巡り、閏(うるう)八月に江戸の千葉道場に着いた。
宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』の年表の同八月のくだりに、「此の頃(略)越前藩邸へ岡本健三郎と共に松平春嶽を訪(おとな)い、勝海舟、横井小楠(しょうなん)へ添書を受ける」とある。
越前藩主・松平春嶽は、手記『逸事史補』の中で、「其以前余が総裁職たりし時、坂本龍馬、岡本健三郎二人謁見を乞ふ、余面会、天下の事情と形勢を陳述せり、勤王の志感ずべき也」と述べている。春嶽は、後に龍馬に強い影響を与えることになる勝海舟、横井小楠への紹介状まで手渡している。
海舟は『氷川清話(ひかわせいわ)』の中で、「今までに天下で恐ろしいものを二人みた。それは横井小楠と西郷南洲」と述べている。南洲とは隆盛のことで、龍馬は海舟の紹介で隆盛とも会い、次第にその輪を広げていく。
翌年一月十三日、龍馬は海舟と共に幕府の順動丸で兵庫を発ち、江戸へ向かった。そして十五日に伊豆下田に寄港。翌日、海舟は下田滞在中の山内容堂に会い、龍馬の脱藩罪の赦免を要請し許可される。その際、容堂は承諾の証拠として、扇面にヒョウタンの絵を描いて「歳酔三百六十回 鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と署名し、海舟に手渡した。また、春嶽も上京した容堂に会い、龍馬の赦免を要請している。
こうして二月二十五日、脱藩罪の赦免書が龍馬に交付された。しかしそれもつかの間、同年十二月、江戸の藩邸から召喚があったが、龍馬は無視してしまう。心配した海舟は、龍馬の修業年限延期を土佐藩に求めるが失敗。またもや龍馬は脱藩の身になってしまった。
慶応三(一八六七)年、長崎での英国水夫殺害事件の際、龍馬は春嶽から容堂に宛てた書状を持って帰国する船に乗り、大監察・佐々木高行に手渡す。高行は容堂に面会した折、龍馬のことも進言した。『佐々木老侯昔日談』によると、「今日の場合は、其取計が穏かであろう。予も含んで置く」と理解を示している。
さらに、高岡郡宇佐浦の『真覚寺日記』には、同年九月末に「御前へ出けるニ金五拾両大義料として下る」とある。龍馬がライフル銃千挺を斡旋(あっせん)するために帰国した折に、容堂に会い五十両を拝領していたという。
●右手に杯を持ち、大政奉還を慶ぶ
山内容堂の像(山内神社)