二年ほど前に、高知市文化協会の「北陸街道を訪ねる史跡めぐり」を案内した。
名神高速道路を彦根方面へ向かうと、多賀サービスエリアがある。この地にある多賀大社と山内一豊の結び付きについて、若干の話をした。
太閤橋や重厚感あふれる本殿を持つ多賀大社は、琵琶湖の近くにあり、うっそうとした森の中に鎮座している。天照大神の親であるイザナギとイザナミが祭られ、生業発展、延命長寿の神として、毎年二百万人を超える参拝者が訪れる。土産品としては、無病長寿のお守りで有名な多た賀が杓じゃくし子と、糸切り餅などがある。また、「お伊勢参らば、お多賀へ参れ、お伊勢はお多賀の子でござる。お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月詣り」とうたわれるなど、「お多賀さん」の愛称で親しまれている。
神社の由緒書に「奈良時代や平安時代にかけては、公家の崇敬が特に篤あつく、鎌倉より戦国、江戸には武家の寄進や祈願が文献に数多く記されています」とある。浅井氏、武田信玄、豊臣秀吉などの武家、さらに、庶民にまであつく信仰されていた。
また、神社刊行の冊子『多賀信仰』の中に、「高知県本部と山内一豊公」の項目がある。「土佐国旧藩主之祖先山内一豊公江州長浜在城ノ際厚ク多賀神社ヲ信仰」とある。一豊が多賀大社近くの長浜城主として在住のころ、あつく信仰していた。その折、神官・安芸甚兵衛(後に小林に改姓)が出入りしていて、慶長六(一六〇一)年に一豊が土佐へ入国した際にも、それに伴って入国している。また、給田百石を受けていることも紹介されている。
明治九(一八七六)年には、多賀教会なる付属団体ができ、同十三年には十五府県にまで広がりをみせ、信徒戸数十三万四千七百戸、信者数は六十万三千人となった。その中で、組織の活動範囲と講員数が群を抜いて多かったのが、高知県の教会であった。そして、昭和二十(一九四五)年までの活動の結果、高知県の登録講数は四万六千にも及び、全国最大規模を誇っていたという。
その理由は、山内一豊以来の信仰の根強さによるものと言えよう。
●山内一豊により高知へ分霊された
多賀神社(宝永町)