幕末、藩内の重臣の中に、坂本龍馬の行動に理解を示した佐々木高行という人物が居た。
慶応三( 一八六七) 年五月二十九日、当時長崎に居た大監察の佐々木高行は、龍馬や岩崎弥太郎と共に、いろは丸沈没事件問題で紀州藩と交渉し、償金八万三千両(後に七万両で妥協)の支払いを承知させている。
また、高行の日記『保古飛呂比(ほごひろひ)』の六月二十三日の条(くだり)に、「借席松本ニ会議ス。大政返上云々ノ建白ヲ修正ス。夫ヨリ毛利恭助同伴ニテ才谷梅太郎(坂本龍馬)、石川誠之助(中岡慎太郎)両人ノ意見ヲ聞ク為メ、会々堂ニ密会ス」とあるように、大政奉還へ向けての根回しまで行ったのである。
龍馬は、高行のこれらの動きに対し、兄・権平宛ての手紙で「国家ニ心配仕候人々ハ後藤象次(二)郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎(高行)、毛利荒次郎(恭助)ニて(略)天下の苦楽を共に致し申候」と書いて、彼を高く評価している。
また、八月二十日には、高行は龍馬の紹介で、長崎に来ていた長州の桂小五郎(木戸孝允)と会見している。『龍馬の手紙』(旺文社)には、八月二十五日から九月十八日までの高行宛ての十二通の手紙が収録されており、それらの宛名には「佐々木先生」や「佐々木大将軍」といった敬称が使われている。龍馬がいかに彼を頼りにしていたか理解できる。
このことについて、『坂本龍馬全集』( 光風社書店)の「年譜」には、「八月二十八日長崎奉行所の十万両を一朝起れば奪いとる計画を佐々木と相談。此頃より佐々木をしばしば訪問、時に起居を共にして、論談大いに発す」とある。場合によっては、長崎奉行所を占拠して討幕の行動を起こす計画まで一緒に考えていたのである。
さらに、同年九月十一日に発生した土佐商会員二名による英米水夫傷害事件(長崎江戸町異人斬り)では、高行は龍馬と謀り、その正当性を主張するため土佐商会員を出頭させ、事件を収拾させている。
同年十一月十五日、龍馬が暗殺される。その悲報は、二十七日に長崎に居た高行に伝わる。高行は日記で「坂本、石川を祭る折節、風にてありけるに、君がためこぼれる月のかげくらくなみだは雨とふりしきりつゝ」と嘆いている。
●佐々木高行生誕地の碑(横浜東町)