土佐史研究家 広谷喜十郎 

324 龍馬と佐々木高行(二)  -高知市広報「あかるいまち」2011年11月号より-

 坂本龍馬が暗殺された知らせは、慶応三(一八六七)年十一月二十七日長崎に届いた。これを聞いた海援隊士・渡辺剛八らは、すぐに、隊長の敵討ちのため上洛したいと佐々木高行に申し出た。それに対し、高行は「今日の状態を考えて、大敵討ちの計画をすべきではないか」と説得した。そして、海援隊士が生活するための費用を、藩金から流用するなどして面倒をみた。

 それが、同年十二月末、高行は藩庁から召喚を受けた。海援隊士らは、大いに驚き「乳児の母に離れ候如く、実に致し方を失ひ果て候」との書状を高行に送っている。ところが、事故のため高行の帰国が延期となり、大晦日(みそか) にいろは丸償金の一万五千三百四十五両を海援隊に分配している。

 翌年一月四日に、鳥羽・伏見の戦いが始まる。幕府側の不利が長崎に伝えられると、長崎奉行所は急ぎ備えを構えた。同月十三日に、高行は長崎奉行と会い、諸外国の応援を求めることなく、堂々と戦うことを申し入れた。

 翌日、高行が海援隊士を引き連れて奉行所へ出掛けてみると、恐れをなしたのか、奉行一行は湾内のロシア船へと逃亡していた。すぐに、奉行所に山内家の家紋の幔幕(まんまく)を引き回し、門前に土佐商会の高張ぢょうちんを掲げ、奉行所を占拠した。ところが、金庫には一文もなく、奉行が持ち逃げしたことが分かった。使者を奉行の所に派遣し、一万七千六百両を封印したまま取り戻すことができた。その折、奉行の懐具合を配慮した使者が、三千五百両を送ったが、奉行はその金の中から千両を返却し、謝意を表したという。

 そして、長崎に在留する諸藩の代表が集まり、奉行所を長崎会議所と改め、発足することになった。会議所では長崎の人々の動揺を抑えるため、奉行所の公金のうち八千両と共に、七歳以上の男女全てに米五千石を支給している。

 高行は慶応四(一八六八)年三月に、会議所の参謀に任ぜられ、外交事務を円滑に処理したり、市政に尽力した。高行の指揮の下、海援隊士らは、長崎のみならず天草方面の治安維持にも務める。やがて、これらの功績が認められ、高行は新政府の重要な地位を与えられることになる。

佐々木高行の書(県立歴史民俗資料館蔵)

●佐々木高行の書(県立歴史民俗資料館蔵)

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