NHK大河テレビドラマ『江』に、徳川秀忠と江の間に生まれた竹千代の乳母として春日局が登場する。この女性は、土佐とは関係の深い人物である。
戦国武将・長宗我部元親は、永禄六(一五六三)年の夏、二十五歳の時に美濃国(みののくに)(現岐阜県)の豪族斎藤氏の一族から妻を迎えている。『土佐物語』によると、元親は「美濃国稲葉伊予守(いよのかみ)が孫、政吉(まさよし)が息女を娶(めと)らばや」と、重臣らを集めて意見を求めている。対して老臣・中島大和は、遠国から妻を迎えるよりは、近くの四国内にいる有力武将の一族から選び、味方にするのが得策ではないか、斎藤氏の息女が美貌なので選んだのではないか、と反対した。元親は「天神地祇(てんじんちぎ)にかけて、全く彼の息女が容色の沙汰を聞き及びたるにあらず(略)祖父伊予守、父豊後守(ぶんごのかみ)、武名芳しき士なれば、彼の腹に出生の子、父祖にあやかる事あらんと思ふばかりなり」と返答している。元親は中央との結び付きを考えての縁組みを意識していたのである。土佐統一以前に、このように考えていたということは、注目に値する。
その後、元親は、四国平定作戦を行う。そして、畿内の織田信長、中国方面の毛利輝元らに使者を送り、四国内の軍事行動を承認させようとしている。
天正三(一五七五)年初冬、阿波への攻略にあたり、元親は長男・弥三郎のために明智光秀に仲介を頼み、信長に烏帽子親(えぼしおや)となることを要請する。そして、阿波での兵を用いる旨の了解も求めている。弥三郎は、信長から「信」の字をもらい、信親と名付けられた。
元親の義兄・斎藤内蔵助(くらのすけ)(利三(としみつ))は光秀の家来であった。山本大(たけし)著『長宗我部元親』(吉川弘文館)によると、元親は妻の立場を利用して、明智光秀を通じて織田氏との交渉を重ねていたという。そして、斎藤利三の娘・お福が、後の春日局である。
明智光秀の本能寺変の後、斎藤利三の息子たちは、豊臣勢に追われる身となった。戦前の歴史家・寺石正路氏は著書『南国遺事』の中で、「春日局幼時土佐に在り」との記事を書いている。
記事は、「記録の伝ふる所によれば」という書き出しで次のようなまとめをしている。「此時家臣等密に局なる御福と其兄三存(みつなり)の二人を引連れ大阪より便船をもて四国に渡らんとせしが豊臣家の追補を恐れて諸児を米俵に忍ばせ竊(ひそ)かに船中に隠し置きしに果して捕吏の急追あり船中に踏込み槍を以て一々米俵を突き試せしに幸に彼等の潜める俵に中らざりしかば家臣もやっと安堵の思をなし(略)御福等の土佐に着せし頃(略)岡豊の繁昌は四隣に並なき際なりき想へば彼の八幡の森の茂き木影や国分の川の清き砂原は実に春日局等が可憐なる童時の遊場なりしならん但其兄なる三存当時通称土産右衛門(つとうえもん)は(略)岡豊の西二里朝倉の里に住みしとぞ聞へし」 そして、『治代普顕記』( 巻七)の中にある「春日局躍興行之事」には、「嫡子ハ肥後ヘ下(くだり)肥後守抱置斎藤立本と云二男と娘ハ土陽の長宗我部家に渡り娘は京都に忍ハセ次男ハ土佐へ下土産右衛門と号て土州朝倉といふ所に侍ける」とある。この娘がお福の事であろうか。この記述に続けて、豊臣秀吉の天下統一後に、お福も晴れて世に出ることができるようになり、それを長宗我部氏が養育して、稲葉内匠頭(たくみのかみ)(正成)の妻にさせたという。
また、この史料には「此局幼き頃祖父石谷兵部大輔(いしがいひょうぶだいゆう)法躰して空然と云し文学第一和歌の達人其上嫡子の兵部少輔(しょうゆう)小笠原の縁に交り旁物知人の座に連り、理眼一の覚にて」と記述されている。春日局は幼少のころより、才智に長け賢い子どもだったという。春日局の縁者である石谷氏の動向については、朝倉慶景(よしかげ)氏が「長宗我部地検帳にみる上方の人々」や、「長宗我部元親の縁者石谷氏について」(土佐史談百六十号)にまとめている。
朝倉氏の研究書を読むと、長宗我部政権の中で、石谷家の人々が四国征覇などで大きな役割を果していたことが理解できる。
春日局と稲葉正成は、後に故あって離婚している。その後、正成は妻に山内康豊(一豊の弟)の娘を迎えている。ということは、土佐藩二代藩主となった康豊の子・忠義と正成は、義兄弟であることになる。
長い間ご愛読ありがとうございました。 広谷喜十郎
昭和57年5月に連載が始まりました「歴史散歩」は、この回が最終回となります。新しいコラムは、あかるいまち平成24年2月号から連載予定です。
●若宮八幡宮に建立された長宗我部元親
初陣の像(長浜)