土佐史研究家 広谷喜十郎 |
170 適塾と土佐(一) -高知市広報「あかるいまち」1997年11月号より- |
いま、「土佐医学史」をまとめているので、今夏、奈良の森野旧薬園(国の史跡)や薬園(やくおん)八幡神社などを訪ね、大阪では土佐堀川近くにある緒方洪庵の適塾や薬の神様である少彦名(すくなひこな)神社(神農さん)へも行ってきた。 近代的なビル建築物が立ち並ぶ中に、江戸時代の町屋風造りの適塾(国の重要文化財)が昔のままに保存されている。適塾は、幕末の医師で優れた洋学者である緒方洪庵によって設けられた蘭学塾で、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内ら数多くの門弟を育てたことで知られている。適塾記念会から提供された門人録によると、土佐の門人14名が認められており、そのうち、高知城下の出身者は、小谷純静、和田敬吉、細川春斉、横矢卓道、横矢平格、徳弘敬之助である。 ●適塾の門人録
嘉永2(1849)年7月、オランダ医師モーニッケによってジェンナーの牛痘法が伝えられ、洪庵は同年11月に除痘館を設けて種痘を開始した。この除痘館には大阪の医師、原左一郎ら11名が参加していたが、実は、原左一郎の弟子に須崎の医師、豊永快蔵がいたのである。「須崎市史」によると、種痘法を学んだ快蔵は、すぐに種苗や器具を持ち、須崎をめざして泉州堺港から兵庫丸に乗り込んだが、阿波沖で船が難破してしまった。そして所持品のほとんどを流失したものの、種苗と器具だけはしっかりと携えて陸路を急ぎ、須崎に帰った。 須崎では、この種痘法が大評判となり、数多くの人々を救済したという。 ほかにも、洪庵に学んだ幡多郡の弘田玄又(げんゆう)の父である篤徳も 「御郡中(おんぐんちゅう)不残(のこらず)上ミ下モ(かみしも)山より御国境、伊予領近郷村々へも数々種痘仕(つかまつり)、近年迄凡(およそ)人数一万弐、三千人余施術仕候(そうろう)」(年譜書) との活躍をしているし、これまた、洪庵に学んだ香美郡野市の萩原慮庵の一族と思われる人が、嘉永5(1852)年5月に 「地中荻(萩)原の牛痘にて一人も損したるはなく相済(あいすまし)、沖里村の御城下共去春より痘死二千人の由」(山中家文書) との活躍をしている。 なお、土佐への種痘法の伝来は、『寺田志斎日記』によると、嘉永3(1850)年4月であると記述されている。 |