土佐史研究家 広谷喜十郎

171 適塾と土佐(二) -高知市広報「あかるいまち」1997年12月号より-
 緒方洪庵の適塾を支えた緒方(大戸)郁蔵は適塾に入ると洪庵と義兄弟となって緒方姓を名乗り、後に洪庵が江戸へ行き医学所頭取になった折に適塾の教育部門を担当している。
 また、郁蔵は独笑軒(どくしょうけん)塾を設けていて、適塾は北壁、郁蔵の独笑軒塾は南壁と呼ばれていた。

 郁蔵は弘化元(1844)年ごろから土佐藩に洋書の翻訳を委託されており、土佐藩が慶応2(1866)年に開成館を設けるにあたっては、土佐に招待されて医局の教頭となった。明治元(1868)年には大阪在住が認められ、高知藩士として家禄20人扶持を受けていた。従って土佐と郁蔵の関係は極めて深いものがあった。

 郁蔵の『門生姓名』には万延元(1860)年から87名の門下生の名前が記入されていて、その中でも土佐からの門下生は26名を数え、全体の約3分の1を占めているのが注目される。
●高知城杉の段近くにある
『橘陰楠先生尚徳ノ碑』
橘陰楠先生尚徳ノ碑
 主な高知市関係者をみてみると、島村良治(潮江)、細川春斉(種崎町)、和田敬吉(紺屋町)、田中順立(廿代町)、井上淡蔵(本町)、壬生寛之助(浦戸町)、箕浦龍蔵(江ノロ)、深尾玄隆(藩医)などがいる。また、門下生の中には、土佐勤王運動で活躍した人の名も認められる。

 土佐勤王党の志士で禁門の変で敗退して天王山で自刃(じじん)した松山深蔵、勤王運動に参加して野根山事件で逮捕されて奈利(なはり)川の河原で斬首された千屋熊太郎、柏原信卿、土佐勤王党の志士で美作国(みまさかのくに:岡山県)で盗賊と間違われて自刃した千屋金策らがいた。

 また、後に山内容堂の侍医となった長岡郡久礼田村(南国市)出身の楠正興は、城下の水通町に居住し、留守居組に昇格した。維新後は御雇外人ウィリスに付いて研鑽(けんさん)し、明治3(1870)年に追手筋で開業した。

 岡村景楼、山崎立生と共に三大名医といわれ、3人が協力して明治13(1880)年に私立医学校である鼎立義塾を創立し、医師の養成にも尽力した。生涯結髪のままで過ごして明治20(1887)年5月に59歳で逝去した。
 なお、高知城内には同23(1889)年に建てられた、楠正興の尚徳碑がある。

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