土佐史研究家 広谷喜十郎

173 女医・お婉(えん)さん(二) -高知市広報「あかるいまち」1998年3月号より-
 平尾道雄氏は『土佐医学史考』の中で、婉女は四十年間も幽閉生活を強制されていたのに、どうして医術を習得てきたのか不思議である、と述べている。そこで、平尾氏は、婉女が後年に作詩した「安田道玄良医に呈す」の字句に注目され、これは、はるかかなたにいる宿毛の安田道玄を追想した詩文であろうと推察されている。

 厳しい監視下にあった野中家の幽閉場所に出入りできたのは、伊賀家のお抱え医師・安田道玄だったかもしれない。
 婉女と前々から文通していた秦泉寺に住む儒学者の谷秦山(じんざん)は、医学の知識を持ち、薬草などに興味を持っていたので、婉女と医術や薬の調合のことなどで意見を交わしていたようである。それは、婉女が谷秦山に書いた見舞いの手紙に、気分をそう快にさせる効能がある丸薬を勧めている記述があるからだ。
●婉女の遺品と伝わる水差し、すずり、手鏡など(高知県立文学館に展示)
婉女の遺品と伝わる水差し、すずり、手鏡など
 婉女は、朝倉の山野を歩きながら、本草学(ほんぞうがく)の学問を深めて、数多くの薬草を見つけ出し、薬の調合に専念していたと思われる。中でも、婉女の創製した丸薬は、旧家臣伊藤益左衛門が販売したところ、大評判となり飛ぶように売れ、婉女の家計を維持するのに役立ったという。

 宿毛から朝倉へ移住して間もない時期、婉女の母親が寒気にあてられたとき、婉女は医師の省庵に薬の調合を依頼しているので、近くの地下(じげ)医師とも交流していたようだ。

 それに、江戸や京都の名家とも交流して、婉女が調合した丸薬を宣伝している書簡もあるから、中央との交流があったことも注目される。婉女は、野中家一族の人々が死に絶えていく中で、一人でも多くの人の命を救いたいとの使命感を持ち、「医は仁術なり」を身を持って実践していたのである。

 婉女は、朝倉に在住していたころは野中家の宝物、医術関係の書籍、自作の詩歌文集などを数多く所蔵していた。それらは、婉女の死後、身近にいて世話をしていた井口段之丞(だんのじょう)にすべて譲渡されていたが、後世に火災のためほとんど焼失してしまったと伝えられている。

 なお、朝倉は薬草の宝庫であったとみえ、享保13(1728)年に江戸幕府の薬園方植村左平次は全国の薬草調査を行ったが、その中に朝倉の薬草を紹介している記述がある。

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