土佐史研究家 広谷喜十郎 |
174 菊間瓦(きくまがわら)と土佐 -高知市広報「あかるいまち」1998年4月号より- |
昨年末に、土佐とのつながりを求めて松山方面に取材旅行をしてきた。今治市では国の名勝地に指定されている約10万平方mにも及ぶ志島ケ原の海岸を訪ねたが、その中に綱敷(つなしき)天満宮があって、境内には黒松の老樹が3千本も茂っていた。 この松林は「明治維新期には伐採の危機もあったが、松山藩を預かった土佐藩の英断によって免れた」(『愛媛県の歴史散歩』)と述べられているように、土佐藩のおかげで残されたものである。 ●愛媛県越智郡菊間町にある「かわら館」
次に、越智郡菊間町に昨年の夏オープンした「かわら館」を訪問した。この町は数百年以上の伝統と四国一の生産を誇る瓦の町であり、館には瓦づくりの歴史や全国の瓦の産地などが分かりやすく展示してあった。実は、この菊間瓦が土佐を代表する安芸瓦のルーツに大きくつながっているのである。岡本真古(まふる)著『事物終始』によると、 「元禄13年庚辰(こうしん)御用の瓦を作らん為に豫州(よしゅう)野間郡菊間浜村半兵衛といふ瓦工を招き寄せられ、安喜浦にて工(たく)みし事あり、その宿せし清右衛門といふもの、翌14年辛巳(しんみ)浜村の瓦工茂兵衛同人子五郎兵衛を雇入れ製す、安喜瓦のはじめにて両人とも居留り御用をも勤めたり」 とあり、元禄13(1700)年に藩当局は、御用瓦を製造させるために、伊予国菊間村の瓦師半兵衛を安芸に招請したのである。 『浦司要録』によると、翌年に安芸の清右衛門が、菊間の瓦師の来国を機会に瓦の民間工業創始を藩庁に願い出て許可を得ている。 菊間出身の茂兵衛父子も土佐藩の御互師になり、鯱(しゃち)や鬼瓦などは茂兵衛の流れをくむ五郎右衛門家で独占的に製造されていた。 高知城の発掘調査や解体修理などで「御瓦師」や「アキ」の刻印のある瓦がよく見つかるそうである。そうすると、高知城にある瓦の多くは、菊間瓦の流れにつながる安芸瓦を使用していたことになる。というのは、現在ある高知城は享保12(1727)年の大火で、古い建築物はほとんど焼けてしまい、寛延3(1750)年にほぼ復旧しているからである。 なお、菊間瓦の製造技術が土佐へ伝来している事実はあまり知られていないので、交流を求めて、今後の研究を期待しておきたい。 |