土佐史研究家 広谷喜十郎

175 はりまや橋界隈(かいわい)(一) -高知市広報「あかるいまち」1998年5月号より-
  慶長6年(1601年)、土佐に入国した山内一豊は、すぐに浦戸城を放棄することを決意して、浦戸湾に面した2つの河川にはさまれた三角州の地に高知城の築城および城下町の建設を始めた。

 そして、東は堀詰、西は升形を限る区画内を武家の住む郭中とし、東側に下町、西側に上町を設けて町人街とした。下町方面の郭中に近い場所には、出身地を示す掛川町・京町・堺町などがつくられた。

 掛川町は山内家の旧領地遠州掛川から給知職人(侍のためのものをつくる職人、刀とぎ師・鎧づくり職人など)たちを移住させてつくった町であり、京町は京都の呉服問屋の筒井宗泉が移住して町をつくったので、その名がある。

新しくなったはりまや橋公園の地下に移された播磨屋宗徳の碑文と先代のはりまや橋▼
はりまや橋公園地下
 それに、堺町も泉州堺の呉服商が呉服商売に来国して住んだ所といわれている。
 呉服物といえば、京都の織物に代表されるような高級品が多いので、武家の要求により調達される場合が多かった。

 従って藩主の御用を務める商人が多く住みついていた。さらに、近くに播磨屋とか櫃屋という特権商人も居住していた。

 播磨屋宗徳は、町づくりに参加して町年寄を務め、慶長10年(1606年)二代藩主山内忠義より直接商業経営することを禁止され、町方支配に専念することになった。

 さらに播磨屋は寛文11年(1671年)には櫃屋と共に大年寄役に任命され、元禄15年(1702年)藩札発行の時、両家を札座(藩札発行所)の名義人にしている。その後も播磨屋は代々大年寄役をつとめ、藩主がたびたび播磨屋の邸宅に来遊したり、江戸幕府の御巡見使が来国した折の宿泊所にしている。

 はりまや橋の始まりについては、

「是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也」(『高知風土記』)

と述べられているように、江戸時代初期は播磨屋と櫃屋とを往来する個人的な橋であったが、後に公橋になったのである。

 江戸時代中期の記録によると、橋の長さは16間(約29m)、幅2間(約3.6m)であった。なお、幕末の城下絵図によると「ハリマヤ丁」がみとめられるが、正式に行政上の町名になるのは近代になってからである。

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