土佐史研究家 広谷喜十郎

176 はりまや橋界隈(かいわい)(二) -高知市広報「あかるいまち」1998年6月号より-
  山内一豊は、慶長6年(1601年)からの高知城の築城に伴い、領内に散在していた中世的な町を順次、下町方面に吸収して弘岡、蓮池、朝倉、種崎、浦戸、山田、新市(岡豊)、赤岡町などを形成させている。

 寛永2年(1625年)には、二代藩主山内忠義が「新堀川法度」という法令を材木町に与えているが、ここは慶長年間には、赤岡町、樽屋町、佐賀町の3カ町に分かれていたところで、寛永2年に町人たちの私費をもって町内の中央に新しく堀川を掘らせ、その両岸に町をつくらせたものである。
 そして、この恩賞として藩主より城下町における林産物の専売特権を与えられ、町名も「材木町」と改称されることになった。

 京町住人の元武士であった美濃屋忠左衛門は元和9年(1623年)に材木仕成方を命ぜられ、材木の上方市場への移出に藩の代行者として活躍し、やがて大商人となっている。 

はりまや橋の魚の棚商店街。ここに城下町初のアーケードが造られた。▼
はりまや橋の魚の棚商店街
 また、寛永7年(1630年)に藩当局は朝倉町の納屋堀に対して、城下町に集中される海産物などの専売特権を付与している。納屋堀問屋は41座が指定され、朝倉町に23座、浦戸町に18座に分割し指定されている。

 さらに、寛永8年(1631年)に吾川郡芳原村住人の島崎藤右衛門が城下に来て、同13年(1636年)に田渕町、南新町、中新町、北新町、鉄砲町の町をつくったので、これらを総称して新町と名付けた。

 やがて、野中兼山時代になり、慶安2年(1649年)に要法寺町ができ、もとは浦戸町に属し、魚棚のあった所が、万治2年(1659年)に魚棚を弘岡町に移し、その後に野菜、乾物を商う者を住まわせ、ここが八百屋町といわれるようになった。

 兼山の積極的な城下町の再整備政策の展開により、寛文5年(1665年)の段階で28カ町から成り立つ町人街ができている。下町方面に細工町、大工町、紺屋町という職人が集住する町もできている。

『高知市沿革略志』によると、寛文年間に願い出て種崎町内にも魚棚の開設が認められ、両側の店屋の屋根から日覆いを差し掛けた町通りにした。これは城下町でアーケードが認められた最初であるという。

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