土佐史研究家 広谷喜十郎

178 はりまや橋界隈(かいわい)(四) -高知市広報「あかるいまち」1998年8月号より-
 幕末期には、竹林寺の僧純信(一説に慶全)といかけ屋の娘お馬との恋の道行きが話題になり、「おかしな事よな播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た」 とヨサコイ節に歌われ、橋が一躍有名になった。

 この時期の『土佐年中行事図絵』の12月の条には「せり合い(すり合い)」という、武家の若者たちが播磨屋橋の上でぶっかりあうすざまじい光景が描写されており、11月の条には「毎歳暮廿五日ヨリ開ク、夜店繁昌の体」があって、町のにぎわい振りを紹介している。

 江戸時代には、武家の住む郭中と町人街とを仕切る堀川が廿代橋通りから南へ、堀詰で屈折し、松渕にかけて通じていた。明治維新を迎えて封建制が撤廃されたので、この堀川と東西の堀川が出会った場所に、南新町の吉田長太郎が明治5年(1872年7月、新京橋という私橋を架け、荷車や人力車から渡り賃を取り立てていた。

復元された、かんざしの形をした欄干を持つ鉄製の橋
(98年春リニューアルされたはりまや橋公園で)▼
リニューアルされたはりまや橋公園
 その後、明治22年(1889年)に経営権は西唐人町の井上龍兵衛と要法寺町の竹崎勝作が譲り受けたが、堀詰や帯屋町から京町、種崎町へ通じるこの道路が県道になったのは、同28年(1895年)5月のことであった。

 それに、同41年(1908年)10月には、はりまや橋の改修工事のために、かんざしの形をした欄干を持つ鉄製の橋が架けられ、橋の界隈が市一番の繁華街としてにぎわうのであった。

 市街地の発展に伴い、南部の高知港とを結ぶ直線道路の開発が必要になったので、同36年に潮江橋が鏡川にかけられた。
 橋の長さは130m、幅4.5mで、

「木鉄混合ハウ式橋で、延べ6,800人を動員し、1年1カ月余の工期、投じた県費が、当時の金で3万9千9百円、構造が大きく、木材、鉄、セメントなど材料調達に苦心した。
 橋台の主な建材はれんが、本県の橋建設工事でれんがを使った最初であった」
(『土佐の高知いまむかし』高知新聞社刊)

という、当時としては極めてモダンな橋梁であった。

 高知市街地で電車が走ったのは同37年5月からであったが、同39年に潮江橋の東側に電車軌道を敷設した橋が架けられ、高知港まで電車軌道が延長された。

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