土佐史研究家 広谷喜十郎

180 坊津(ぼうのつ)と土佐 -高知市広報「あかるいまち」1998年10月号より-
 本年の三月末から四月初めにかけて一週間、九州方面への旅行をしてきた。
 今、「土佐カツオ漁業史」をまとめているので、薩南地方の枕崎市や山川町へ行ってきたが、この方面のカツオ節は「土佐型」の節造りの技法を取り入れて、明治期後半から盛んになったという。

 昨年の春は、千葉県の房総半島まで行き、「土佐与市の墓」を訪ねてきたが、カツオの「土佐節」が、かなり広範囲に広がっていることが分かった。

今回の旅行の最大目的は、薩摩半島の突端にある坊津町の坊ノ岬に立ち、そこから南に広がる海を見てみることだった。
 室町時代には、日本と中国との間に対明貿易が行われたが、瀬戸内海地域を山口の大内氏や九州の博多商人に制圧されたために、四国を支配していた細川氏や堺商人らの貿易船は土佐沖を通過する南海航路を設け、浦戸、四万十川入り口の下田、薩摩の坊津などを寄港地にして、東シナ海を越えて揚子江の入り口の寧波(にんぽー)までのルートを利用していた。

旧一条院跡である坊泊(ぼうとまり)小学校の校庭に
残されている飯田備前のこう徳碑▼
飯田備前のこう徳碑
 この頃に制定されたといわれる我が国最初の海上法規である「廻船大法(かいせんたいほう)」の末尾には、兵庫、薩摩の坊津の船頭と共に、土佐国浦戸の篠原孫左衛門が署名している。
 坊津町は、昔から遣唐船の出入り地、鑑真上人の上陸地として知られていた所である。

 そのゆかりの史跡を訪ねてあちこち歩き回ったが、坊泊(ぼうとまり)小学校が旧一乗院跡であることを知り、行ったところ、廻船大法の署名者である飯田備前の大きな頌徳碑(しょうとくひ)があった。

 その碑面には、

「飯田備前ハ坊津ノ人、貞応二年三月十六日鎌倉ニ名サレ、兵庫辻村新兵衛、土佐篠原孫右衛門と共ニ、船法ヲ走ム、廻船式目三十一ヶ条是ナリ、幕府三人ニ神判ヲ与へ、天下に令シ(略)実ニ我国海事法ノ合志嚆矢(こうし)ナリ」

と刻記されていた。

 石碑に出ている篠原孫右衛門は、『高知県史』では浦戸の篠原孫左衛門として紹介されており、貞応二年(1223年)といえば鎌倉時代にあたるが、後世の室町時代に制定されたとの説が有力である。
 とにかく浦戸の篠原孫左衛門は日本を代表とする船頭として大活躍した人物だったのである。

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