土佐史研究家 広谷喜十郎 |
185 岡崎 精郎 -高知市広報「あかるいまち」1999年4月号より- |
自画像
岡崎精郎は明治31年(1898年)、吾川郡秋山村(春野町)に生まれ、やがて、県立第一中学校を卒業後に画家を志望して上京したが、健康を害して帰郷せざるを得なかった。療養生活の中で人道主義に目覚め、自宅を天生園と名付けて青年団運動や貧しい病人の治療活動を始めた。昭和元年、被差別部落出身の青年が吾南青年団雄弁大会の席上で、差別により虐げられている生活の窮状を訴えた。それを聞いた精郎は、すぐにその場で、その人の前に行き、無智を恥じてひざまずいて謝罪している。 昭和五年に秋山村に県下初の隣保館を建設しているが、「当日は村有志、男女青年団が協力して万端の準備を為し、余興に素人相撲があり珍しい賑(にぎわ)ひを呈した」(融和時報)という。昭和7年には、高知県差別撤廃期成同盟が結成され、委員長として差別撤廃運動の先頭に立って活躍している。 出獄歓迎のビラ(1933年11月)
一方、昭和4年に県下に広がった産米検査反対運動にも参加して、精郎は吾川郡農民組合長になっている。同年7月の秋山村議会議員選挙で、革新系の議員が過半数を占めたので、彼は秋山村長になった。さらに、昭和7年7月に全国農民組合高知県連合会が結成されたときも、村長在任のまま委員長に選出され、数多くの小作争議に積極的に関係していたので、同年末の仁西小作争議の折りに、逮捕されて禁固8ヵ月の実刑を受けて村長失格となった。精郎は私財を投じて高岡町(土佐市)に貧しい庶民を対象にした大衆診療所を開設している。そして、昭和10年の県会議員選挙に3度目の立候補をして落選したが、繰り上げで議員になることができた。後に高知市長となった氏原一郎らと共に新興倶楽部を結成して農民問題や被差別部落問題を取り上げて活躍したが、同12年12月の県議会で質問中に倒れて、翌年正月に39歳の若さで逝去した。 春野町の四国霊場の種間寺境内に精郎の肖像レリーフをはめ込んだ記念碑があり、「あなたは立派な詩や繪をかかれすぐれた藝術家であった あなたは同和問題に力をつくされ 偉大な社會教育家であった あなたは農民運動に生涯を捧げられ農民の父としてしたわれた」との文句が刻記されており、裏面に「高知県農民建之」とあるのが印象的である。 |