土佐史研究家 広谷喜十郎

187 島弥九郎の悲劇 -高知市広報「あかるいまち」1999年6月号より-
那佐湾内の二子島(徳島県宍喰町)
那佐湾内の二子島(徳島県宍喰町)昨年の5月に阿南方面の長宗我部元親関係の史跡を訪ねる旅をしてきた。

 宍喰町から海部町にかけての国道沿いに、かなり入り込んだ那佐湾の奥まった所に小さな二子島がある。ここは、元亀2年(1571年)に『土佐の長宗我部元親の弟、島弥九郎が病気治療のため京都にむかう途中、荒波にはばまれて航行できなくなり、波の静かな那佐湾に停泊した。それをかねてから土佐軍に反感を抱いていた海部の軍が急襲した。

 そのとき弥九郎は「われ弓馬の家に生まれ、病臥に死するは無念、戦場にて命を落とすは武士の本懐なり。後に名を汚さず討死せよ」と呼び30人余の家来とともに海部軍と激しく戦い、全員戦死した』(『徳島県の歴史散歩』)といわれているように、島弥九郎が家臣30人とともに華々しく戦った古戦場だったのである。

 その弥九郎の霊は二子島に祀られていたが、今は近くの三島神社に合祭されているという。そこで那佐湾の手前辺りの国道沿いを気を付けながら、自動車を走らせていたところ、山のふもとに神社の森をすぐに見つけることができた。そして、神社前に到達すると、ちょうど、近所の人に出会ったので聞いてみたところ、この神社は弥九郎らの霊を祀っていますとの返事があった。
 この神社の境内に弥九郎と30余人の家臣の霊を鎮めるための供養碑を建てる必要性を痛感したものである。

 なお、山本大著『長宗我部元親』によると、「安芸氏の遺臣が海部氏を頼り、旧主の仇を報いようとして、海部宗寿にすすめ、元親の弟であるため親益(弥九郎)を殺させた」との一説を紹介している。

 長宗我部元親は弟の悲報に接して大いに怒り、悲しみ、弟の仇討ちのために阿波攻略の機会を狙っていた。そんな折、阿波の海部と宍喰西村との間に知行地境をめぐって争論がおこり、海部氏から宍喰方への圧力が強まったので、元親は天正3年(1575年)末に宍喰に侵入して鈴ヶ峰(395メートル)の砦を攻め、さらに海部城を攻撃して一挙に落城させている。

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