土佐史研究家 広谷喜十郎

191 十津川と土佐(二) -高知市広報「あかるいまち」1999年10月号より-
 奈良十津川郷出身の中井庄五郎は、17歳になった文久3年(1863年)3月に上平主税に随行して上京し、諸藩の志士と交流して、やがて勤王運動に心を寄せるようになったという。
 元治年間に帰郷し、慶応元年3月に土佐藩の脱藩志士である那須盛馬(片岡利和)と同行して再び上洛している。
 ある時、盛馬と酒を飲んだ後に四条橋辺りを酔いをさましながら散歩している折、新撰組の沖田総司ら3名と衝突して切り結んだが、両人とも銘酊していたので切り立てられ、わずかのすきに危機を脱出することができ、庄五郎は重傷の盛馬を助けて麩屋町姉小路池村久兵衛宅まで連れて行き、医者を呼んで手当てさせている。
 徹夜で盛馬を看護して翌日に京都の屋敷に帰ったといわれている。
潮江天満宮の玉垣に片岡利和の名
が認められる(天神町潮江天満宮)
潮江天満宮の玉垣 那須盛馬は、土佐郡潮江村(高知市)の永野源三郎の次男で、佐川の深尾家臣那須橘蔵の養子となり、武術にすぐれた剛勇の士としての聞こえが高かった人物である。
 文久元年に土佐勤王党に参加し、翌年に謹慎処分を受け、元治元年(1864年)に田中光顕らと脱藩した。そして大阪で新撰組の追跡を受けて逃れ、大和の十津川郷に潜伏し、慶応元年に出京して討幕運動に参加したものなのである。
 後に片岡利和を名乗り、維新後は中央政府の諸官を歴任し、明治39年(1906年)に貴族院議員に任ぜられ、男爵となった。明治41年11月2日に73歳で逝去して、墓は東京の青山墓地にある。

 『十津川巡り』という小冊子の中の「来郷した維新の元勲、田中光顕歌碑」の条に「光顕(浜田辰弥)は高知県佐川の出身で、幕末、討幕運動中、幕府の目を避けて、十津川郷に来たり、一時、上湯川田中主馬蔵宅に滞在していた(略)近隣の子弟に学問・剣術を教えた」と記述されていて、「慶応元年の春果てなし坂の上にて恤ヵ黷フすみます国はみえながら ふみもゆるさぬ関守は誰ぞ掾vという光顕の立派な歌碑が建立されているという。

 それに、文久2年に土佐を脱藩した日下村の北添佶磨も十津川郷に入り込み、野崎主計宅で滞在している。十津川郷の人々の心温まるもてなしがあったからこそ、脱藩志士が安心して逃げ込むことができたといえよう。

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