土佐史研究家 広谷喜十郎

193 戊辰戦役の従軍医 -高知市広報「あかるいまち」1999年12月号より-
 丹野美子氏が「戊辰戦争従軍医 官軍弘田親厚(ちかあつ)の日記」(『古文書に学ぶ日本史(下)』名著出版)で、親厚が書き残した『東征道の記』『会津征討日記』を紹介している。

 親厚は「土佐病院総宰」として、田口文良(ぶんりょう)、横川酸達(さんたつ)、北川謙伯(けんぱく)、大久保玄良ら10人の医師を引率して戊辰戦役に参加して活躍している。田口文良は、高知城下北奉公人町(きたほうこうにんまち)の医師で、大阪、江戸、横浜に出て西洋式医術を学んだが、文久元年(1861年)の土佐勤王党に加盟し、戊辰戦役では迅衝隊(じんしょうたい)付の軍医としての功績により新留守居(しんるすい)組に昇進している。
 他の従軍医は「藩病院下役(したやく)」や「開成館医局御用役」などを務めていた医師たちであった。

田口文良の墓(山手町)
田口文良の墓(山手町) 『会津征討日記』によると、先発した土佐軍が奥州街道を宇都宮に向かい、安塚の戦いで多数の死者や負傷者を出し、医師の横川酸達や北川謙伯が一時は行方不明になったほどの激戦であったという。

 親厚は「上肘骨傷ニ付(つき)コロールを嗅(かが)せ麻酔せしめ、上肘を切断し破骨を出しぬれ共(ども)裂傷管故」「食指(しょくし)の銃創腐蝕の徴(きざし)見へける故、コロラルを嗅せ切断(たち)ける」などの記述に見られるような外科手術を行い、「薩の医生未熟故、治療土佐病院へ托(たく)され、藤太(とうた)始め余(よ)の銃創十弐人を療しける」とあるように、他藩の負傷者の手当てもしている。

 コロール(コロラル)とはクロロホルムのことで、丹野氏は他の医術書や東北戦役に従軍したイギリス人ウイリアム・ウイリスのクロロホルム麻酔剤を使用した例を挙げ、親厚の医療技術が当時としてはかなり優秀なものだったことを述べている。

 なお親厚は幡多郡下田浦の医師で嘉永3年(1850年)に大阪の緒方洪庵の適塾に入門、翌年華岡塾の合水堂に入門して本格的な西洋式外科医術を学んだ人物であった。
 戊辰戦役は、慶応四年(明治元年・1868年)1月3日の鳥羽伏見の戦いから始まり、翌年5月18日の函館五稜郭の陥落までの間に、政府軍の戦死者4,195人、東軍の戦死者は6,500人余りといわれている。

 これが契機となり、西洋医術、とりわけ外科医術の必要性を痛感させて、全国各地に西洋式医院が建設されることになるのである。

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