はるの昔ばなし

ほら穴の観音様

 

ほら穴の観音様イラスト

 芳原〔よしはら〕の里、北寄りの大芝<〔おおしば〕という部落に「上の討ち場」「下の討ち場」という字名のところがありますが、これは山内家指定の猟場の名残りと思われます。

 正保四年(一六四七)の秋の一日、二代藩主忠義〔ただよし〕公はここに狩りを催して大変不きげんでした。一匹の獲物も無かったからです。供頭〔ともがしら〕の志賀〔しが〕喜兵衛勝政は、不猟が自分の責任であるかのように思い、必死で茂みの中を駆けまわりました。

 その時です。勝政は大曲がりの大きな楠のうつろ穴の中に何やら光る物を見付けました。近寄ってみると、ずっと昔にお堂が焼けたという観音様でした。元はりっぱなお堂があったのですが、それが焼けてからはお姿も見えなくなっていたものです。

 忠義公は急ぎ、観音様を拝みました。そして獲物があるように祈りました。それからの猟は不思議と獲物が多く、とうとう七頭の猪を仕止めることが出来ました。帰り道、再び観音様の前に立ち「きょうのお礼にお堂をお建てします」と申し上げました。

 しばらくの後、参勤交代のため忠義公は海路大阪に向かいました。室戸の沖まで来ると、荒れてもいないのに船がいっこうに進みません。「どうした、どうした」「何かあったのか」と大騒ぎしていると、行く手にまっ黒い雲が現われました。あれよあれよ、と言っている間にその雲の中から緋〔ひ〕の衣を着た僧形〔そうぎょう〕の姿が浮かびました。そうして

 「われは観音の化身〔けしん〕なるぞ。先の誓いはどうしたのか。」

という厳〔おご〕そかな声です。忠義公は恐る恐る

 「大阪へ着きしだいお堂を半分造らせます。土佐へ帰った時、後の半分を造ります。」

と答えましたが、するとたちまち黒雲は消え失せて、船は大阪へと進みました。

 参勤交代のつとめを終えて土佐へ帰った忠義公は、早速にお堂を造らせました。大阪で造らせた半分と、こちらで造らせた半分とがかっちり合うてりっぱなお堂が出来ました。その場所は寺が段といって、今のお堂の所より少し上の方だといいます。


山内家…近世の土佐藩主です。

ずっと昔にお堂が焼けたという観音様…この話の舞台となった柏尾山の山頂付近には、かつて観正寺という寺院がありました。縁起によれば、その後火災にあってお堂などはすっかり焼けたものの、観音像はそこから飛び去り、難を逃れたとのことです。

室戸…むろと。高知県の東南端の地域です。

今のお堂…現在も芳原地区にのこる、高知県指定文化財の観音正寺観音堂〔かんのんしょうじかんのんどう〕のことです。

 

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