はるの昔ばなし

春野様の雨

 

 新川〔しんかわ〕には『春野様』と呼ぶ大きな祭があります。不思議と毎年毎年このお祭に雨が降るのです。町中に縄を張りめぐらして提灯〔ちょうちん〕をともし、何十という出店〔でみせ〕がおもちゃや食べ物を飾り立てて近在〔きんざい〕の人びとを待ち受けます。町全体が参拝の人でいっぱいになる頃に決まって雨が降るのです。

 東ノ町に芝居小屋がありました。『春野座』と言い、大正のころまで芝居や浪花節〔なにわぶし〕、活動写真などがよく掛かりました。ところがそれがまた、三度に二度は雨になるのです。「春野がいかん。春の野は雨と決まっちゅうき。」というわけで、大正の時『盛楽座』と名を変えたことでした。

 さて、新川が木場として華やかな明治の初め、人夫の中に少々頭は弱いが六尺豊か、力なら普通の男の三倍以上はあるというトラと呼ばれる男がいました。安い賃金で、朝早くから晩おそくまで、おだてられ、仲間の何倍もの仕事をさせられていました。

 そのうちに、トラも自分が馬鹿にされていることに気付きました。無法ではあるが力があるので重宝〔ちょうほう〕がられていたトラに、“馬鹿トラ”などと言われていることを知ると大変腹が立ちました。

 祭の夜、一升びんの栓〔せん〕を口で抜き、三升は飲むという酒を一人で飲んでいると、得体〔えたい〕の知れない怒りがこみ上げて来ました。じっとしておれなくなったトラは仲間のところへ走りました。

 日頃から馬鹿にしているトラの形相〔ぎょうそう〕に仲間は驚きましたが、こちらもかなり酒が入っていますのでますますトラを馬鹿呼ばわりします。

 遂に乱闘〔らんとう〕になりました。めがね橋の上でトラは六人を相手のけんかです。倒れたトラの口に天びん棒が突きささり、歯がこぼれました。

 その夜、トラは二十六歳の若さで死にました。残された母親は、棺〔かん〕の中に鎌を入れながら

「トラよ。こんどは強くなってこい。性根があったらもう一度出てこいよ。」

と叫びました。

 一年たった祭の日のこと、あの夜のトラの悔し涙か、トラの不運を憐〔あわ〕れんだ人びとの弔い涙か、祭たけなわの頃、急に大雨が降ってきました。そしてまたそのあくる年も…。

 こうして春野神社の夜祭に、雨が降る日が多くなったのです。

春野様の雨イラスト


新川が木場として華やかな…新川は近世初期、土佐藩奉行職野中兼山によってつくられた在郷町で、内陸水路としても活用された用水路と、浦戸〔うらど〕湾から高知城下へと続く新川川との接点に位置し、仁淀川上流と高知城下との中継貿易地として大いに栄えました。集まる物資のうち、仁淀川上流から水路で運ばれてくるものは材木が多かったことにより、かつては木材の町としても有名でした。

春野神社…新川にある、野中兼山をまつった神社です。もともとは「墾野神社」で、文頭の「春野様」はこの神社の祭りのことです。

 

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