はるの昔ばなし

渡し場の怪

 

 年輩の人びとは、〈十文字の渡し〉〈すずれの渡し〉があったことを知っておられると思います。

 仁ノや西畑の人びと、それに対岸の新居方面の人びとは、仁淀川を越しての往き来には、終戦の頃まで大方この渡し舟を利用していました。川岸に立って「おーい」と呼ぶと、小屋の中から渡し守が出て来て舟を寄せてくれます。そうしてギッチラ、ギッチラ、と漕いでくれるのですが、これはのどかな仁淀川の風物詩でもありました。

 すずれの勘吉渡しは、野村勘吉さんが大正・昭和と渡し守をしていたのでこの名が残っています。明治の時代には吉永甚六さんが渡し守でありました。それ以前は渡し場は少し上み手の小田にあったそうですから、この話は多分小田での出来事であったろうと思われます。

 天正十六年吉良親実が切腹、一党七人が斬罪を受けてからは各地で怪奇が起こり、人びとは「七人みさき」と言っておじおそれました。

 ある日の夕方、向う岸で舟を呼ぶ声がしました。渡し守は早速舟を漕いで新居の岸べに着けましたが、人の姿は全然見えません。漕ぎ返そうとしましたが、こんどは舟が動きません。はてなといぶかっていると、ガチャ、ガチャ、と刀のこじりの触れ合う音がして何人かが乗りこんだようすです。そうしてなんにも見えない中から「早く早く、大急ぎだ。」という声がしました。

 渡し守は生きた心地もなく漕ぎに漕ぎました。するとまた声だけして

 「ここにおわすは吉良左京進〔さきょうのしん〕殿であるぞ。これより大高坂へ行ってひと暴れしようというところじゃ。帰路もこの舟に乗るによって舟の用意を怠るな。」

というのです。

 そうして甲冑〔かっちゅう〕武具の音も騒々しく岸へ上がって行きました。渡し守はあまりの恐ろしさに歯の根も合わず、がつがつふるえながら姿のない亡霊の一行を見送ったといいます。

渡し場の怪イラスト


七人みさき…くわしくは第10話「七人みさき」を参照してください。

 

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