はるの昔ばなし
八田堰の苦役
春野の今日の繁栄はここに水路を作った野中兼山のおかげです。八田堰、行当〔ゆきとう〕の切抜、延長十六㎞の幹線井筋〔いすじ〕とそれに連なっている支流の水路、そして諸木〔もろぎ〕唐音の切抜‐。そのどれをとってみても人力だけによる工事ですから、その難儀の程は言いようのないものだったことでしょう。
とりわけ、八田堰の修復と行当の掘削〔くっさく〕については、苦役に堪えかねた嘆きの歌や上手に息抜きをしようとした珍談などが生まれています。ここに掲げるのは、造っては崩れ、造っては崩れした八田堰にまつわる話です。
二升飯食って 血便たれて
夜から夜までの 苦役の果てに
諸木井筋にゃ 水がない
明治から大正時代にかけて、八田堰修理の苦しさを、春野の農民がうたった歌です。
吾南水利組合(現在の吾南土地改良区)の管理する吾南井筋の水利の源が、仁淀川の洪水のたびに崩れ、その修理作業は当時の吾南十ヵ村(八田村を含む)の農民が、割当で出て行っていました。
寒風の河原、氷の水中で大きい石を運んだり積んだり、朝七時から夕方五時まで、人力だけの重労働、しかも往復は徒歩で、遠い諸木の人は朝五時に家を出て帰りは八時になったそうです。
弁当は二升入りを持ち、十一時に一升のめしを食べ、やつ(二時)に一升たいらげたといいます。女の陣痛〔じんつう〕にたとえられた程の苦労話にまじって、諸木の灘〔なだ〕の幾馬さん、弘岡下の堀池〔ほりけ〕の勉平さんの二人のように、さし(二人がき)で百貫の石をかついだという、後〔のち〕のちの語り草になった話も伝わっています。
野中兼山…のなかけんざん。近世初期の土佐藩奉行職です。名は良継〔よしつぐ〕、兼山は号。春野だけでなく各地に堰と用水路を建設し、大規模な新田開発を目指しました。
八田堰…はたぜき。兼山の政策によって、春野の西を流れる大河川である仁淀川に築かれた堰。この堰から春野の用水路へと用水が引かれています。かつては「弘岡堰」ともよばれていました。なお、「八田」は堰が建設された地名(現いの町八田)です。
行当の切抜…ゆきとうのきりぬき。行当はいの町八田に接する春野町弘岡上〔ひろおかかみ〕の地名です。この間には山があり、用水路を通すために山を切り抜いたもの。高知市指定文化財。なお、この行当の切抜は、春野の用水路工事において最難関であったともいわれています。
井筋…ゆすじ。用水路のことです。
唐音の切抜…唐音〔かろと/からと〕は諸木の一地域名。用水路と同時期に、兼山によって開削された排水路兼水運路である新川川〔しんかわがわ〕を高知城の南にある浦戸〔うらど〕湾へと通すために山を切り抜いたものです。行当の切抜とならぶ難工事であったといわれるが、これによって仁淀川と高知城下は用水路と新川川を通じて1本のルートで結ばれることとなりました。
諸木井筋…もろぎゆすじ。用水路のおもな支流のひとつで、最東端である諸木まで流れています。ちなみに、この諸木井筋に沿って植えられたアジサイが、春野の観光スポット「あじさい街道」のルーツです。
吾南…ごなん。吾川郡南部の略称です。春野を含む一帯と解釈できます。
仁淀川…によどがわ。春野の西を流れる大河川です。この河川に八田堰は建設され、ここからの水が用水路を通って春野へと運ばれてきます。