はるの昔ばなし
荒倉の山鳴り
明暦〔めいれき〕の頃、というから、この話は土佐藩二代目藩主忠義公の時の出来事だと思います。
当時の荒倉〔あらくら〕越えは、今の荒倉神社の東側の谷を奥へはいり、山を斜めに上がって峠を越え、大曲りの手前から海老〔えび〕が橋のところへ下りるという道だったようです。
この坂道を、毎日馬に乗って城下へ往復する若者がありました。井沢仁左衛門といい、忠義公に仕えて神事をつかさどる役をしていました。
ある日、峠の近くまで来ると、突然獣〔けもの〕の叫び声がしました。くさむらの中で、うなり、叫び狂っていたその獣は彼の前に飛び出して来ました。見れば大きな山犬です。たちまち馬は棒立ち――。主を振り落として一目散に逃げ帰ってしまいました。
この時仁左衛門は少しも騒がず、きっと山犬を見すえました。口は血だらけです。よく見ると大きな猪〔いのしし〕の骨をくわえています。血だらけも道理、その骨が歯の間に刺さり、先が上あごを突き破っているのです。
仁左衛門は勇気をふるってその骨を引き抜きました。山犬は大声を残して谷底深く姿を消しました。
それから一月程たったある夕方、仁左衛門は歩いてこの坂を越していました。と、不意にあの山犬が現れました。あっと言う間もあらばこそ、山犬は仁左衛門の袖をくわえて引き倒し、馬乗りになりました。「しまった」と思った時、突如として一天俄〔にわ〕かにかき曇り、あたりは真っ暗闇――。たちまち耳をつんざくばかりの山鳴り――。山に響き谷にこだましてゴウゴウと割れんばかり――。
危ういところを仁左衛門は助かりましたが、今の荒川神社の神主吉良巖城さんはこの人の十何代目かの後裔〔こうえい〕だということです。
山犬はその後、出て来ることはなかったそうですが、しかし、井沢家の代がわり毎に、夜半遅くまで大声でなくことが続いたということです。
明暦…めいれき。1655~58年。
荒倉越え…荒倉山を越えて城下へと向かうルートのことです。かつての主要街道でした。