はるの昔ばなし
直訴の罪
安政の大地震は、西畑〔さいばた〕や田の浦の人びとをどん底に陥し入れました。特に田の浦は袋の底のようになった土地ですから、地震に続いて押し寄せた 高潮〔たかしお〕がたまって十日も引かず、田も畑もすっかり駄目になってしまいました。
こうなっては、山の手を開墾〔かいこん〕して何かを作るよりしか道はありません。毎日毎日庄屋に願い出ましたが、庄屋は何を考えていたのかいっこうに役所に取次ごうといたしません。田の浦の人びとは飢え死寸前まで追いこまれました。
この時、一人の若者が立ち上がりました。名は寿源太〔じゅげんた〕、近く藩主豊信公が仁淀川を越え、高岡路を巡察することを耳にしていたので、この時直訴〔じきそ〕しようというのです。
いよいよその日、一行が中島の渡し場に掛かった時、寿源太は行列に向かってとびこみました。供揃〔ともぞろ〕いの棒にさえぎられはしましたが、彼の声は藩主の耳に届きました。
数日の後、藩役人が検分のため田の浦に来ました。突然の訪問を受けた庄屋のあわてようといったらありません。袴〔はかま〕の前と後ろとをはきちがえてきりきり舞いをしたそうです。
庄屋はさんざんにお叱りを受けました。住民を見殺しにしていたことはゆるせないぞというわけで、小川の樅〔もみ〕の木山(今のいの町吾北小川)へ追放されました。直訴の罪は最も重いものとされていましたが、寿源太の行為は義侠心〔ぎきょうしん〕によるものとして罪一さいをゆるされました。そればかりか藩に召し抱えられて、巡察の折りの傘持ちを務めることになりした。藩主の参勤交代の折りには、傘持ち役として江戸までお供をするようになったといいます。
しかし江戸で病を得て土佐に帰りました。その後も病は重くなるばかり、毎日煎〔せん〕じ薬〔ぐすり〕を浴びる程飲みながら不遇のうちに亡くなったそうです。寿源太の墓は田の浦の小鶴井〔こづるい〕の峰にあります。苔むした石碑には、正面に「釈〔しゃく〕杉村寿源太之墓」、側面に「享年〔きょうねん〕三十四歳没〔ぼつ〕」と刻まれています。
安政の大地震…安政元(1854)年に起こった南海地震。東海と伊予灘でも同時期に地震が起こりました。
中島の渡し場…かつての仁淀川の渡し場です。春野町弘岡上と土佐市中島とを渡していました。
供揃い…ともぞろい。大名行列のお供をする人々のことです。