はるの昔ばなし
北前の狸
前がき
狸〔たぬき〕は人を化かすもんじゃ言うてのう、昔の人は、夜はもう外へはよう出ざったいうが知っちゅうかよ――次の話はこういうふうに、少し言い方を変えて話してやると、子どもたちがとても喜ぶだろうと思います。
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狸は人を化かすものだというので、昔の人は夜の出歩きなどを大変こわがったようです。そんな時には
「こいさ〔今夜〕も狸の汁吸うた。よんべも狸の汁吸うた。」
と言うて通ったら、狸はよう出て来ん――という話が、弘岡中の北前あたりに残っています。
二百年余り前のこと、薬師堂部落に野村玄門という人がありました。ちょっとした知識人で、玄門さんといえば、ああ、あの人か、と誰にも知られた人でした。
王子様の夏祭の晩のことです。大ぜいのお詣りの人びとの中で、一人だけ誰とも話をせず、そうっと拝んでいる人がありました。誰の目にも、それは玄門さん、と見えました。しかし……
「人混みの中で、ものひとつ言わない人は狸の化けたがじゃ。」
という話を聞いていた一人の若者は、<あの人は怪しいぞ――>と思いました。
「狸じゃったら、下の方をこじゃんとなぐれ。」
ということばを思い出したこの若者は、その怪しい人の後ろに近づくと、持っていた大きな棒で、腰の下あたりを思いきりなぐりました。
ばったり、と倒れたその人はやはり玄門さんでした。よくよくこたえたと見え、玄門さんは間もなく息を引きとりました。さあ大変、若者はまっ青になりました。お詣りの人びとも大騒ぎです。
若者は人びとと一緒に、玄門さんの家へ走りました。家では、玄門さんがきちんとすわって本を読んでいました。さあ、どちらが本物か分かりません。またお宮の方へ走りました。
「狸か狸でないか、むしろをかぶせちょいたら分かる。」
という声に、むしろをかぶせますと、やがて狸になりました。若者はやっと色を取りもどしました。
何事もなかった、ほんものの玄門さんのその後のことはよく分かりませんが、大正の頃、弘岡中ノ村の村長を勤められた野村方義〔ほうぎ〕さんが、その玄門さんの子孫ではないかと言われています。