はるの昔ばなし
内の谷の蟹
内の谷には、昔から蟹〔かに〕をとられんという言い伝えがあります。
それには、次のような話があります。
内の谷の氏神様は、吉次にある天満宮です。京都の北野から勧請〔かんじょう〕したもののようですが、その年月はわかっていません。
はじめは神母行〔いげんぎょう〕の奥の、天神が谷へ鎮座〔ちんざ〕していたものですが、そこでは大雨のたびに鷲尾山の急斜面から鉄砲水が流れ込み、社殿〔しゃでん〕も傷むし社領〔しゃりょう〕も潰〔つぶ〕れてしまうので、里びとたちはいつも心をいためておりました。
鉄砲水は山を下って部落の中央を流れ、吉次のジョエン(字の名、今のお社のあるところ)にある大きな岩盤〔がんばん〕に突き当って西へ曲り、それから南へ流れて新川川へはいっていたようです。
ある夏のこと、幾日も幾日も続いて雨雲が北へはしり、人びとが大豪雨になるかも知れんと心配していた折り、幾百幾千もの蟹がご神体を背負うて山を下り、ジョエンの岩盤のかげで休みました。
岩盤は高さ約二十メートル、上にはこんもりと木が茂っていますが、このことがあってからこの岩盤の上にお社が造られ、今の天満宮となったわけです。それ以来、内の谷では蟹は神様のお使いというわけで、いっさいとらないということになったそうです。
ところで、ここに建てられたはじめの社殿は、今から六十七年程前に焼けてしまいました。それにはこんな話があります。
社殿の西に出たひさしの下に大きな熊蜂の巣があったのですが、元気ものの若い連中がこれを取ろうということになりました。日暮れを待って松明〔たいまつ〕を用意し、ひさしの下に集まりました。
やがて一斗だる程の蜂の巣が落ちてきた時には、どっという歓声がわきました。部落の人にも見て貰おうというので、重い蜂の巣をかついで帰りましたが、その夜更けに火災が起こり、お社がすっかり焼けてしまったということです。
鷲尾山…わしおやま。内ノ谷地区の北側にある山です。