はるの昔ばなし
樟の前の乱闘
弘岡上、西窪の堤防の上に大きな樟〔くすのき〕があります。樹齢凡〔およ〕そ千年、根元の回りは九・二メートル、高さは優に三十メートルはあろうという大木です。
この樹の下に子安地蔵尊〔こやすじぞうそん〕がまつられていますが、人びとは『子安〔こやす〕様』と呼んだり、『子授け地蔵様』と呼んだりして、戦前にはお詣りする人も多かったようです。ここにお詣りして子どもを授かった人は、よく樟や楠〔くすのき〕の字を名前に付けていて、弘岡上あたりでは、楠馬〔くすま〕・楠次郎〔くすじろう〕・樟美〔くすみ〕などという名前の人がたくさんいることは広く知られていることです。
明治四十年二月、ここに庵〔いおり〕を結んでいた浜田馬さんが、この樹を売りに出しました。二月四日、買手という高知の島村儀之助という人が、相撲取り程の大きな男を十何人も引き連れてやって来ました。
部落の人が気が付いた時にはすでに大鋸〔のこぎり〕が当てられていました。さあ大変、この霊験〔れいけん〕あらたかな樟を伐らしてなるものかと、部落では法螺貝〔ほらがい〕を吹き鳴らして人びとを集めました。伐ろうとする人、止めようとする人、たちまち入り乱れての大喧嘩となりました。
中でも、中山樟馬〔くすま〕という人は
「わしの名はこの樟さまから頂いたものだ。さすれば、この樹はわしの親もおんなじだ。この木が伐れるものなら伐ってみよ。」
と、大声で叫び、樟の伐り口に腰を掛けました。駐在官も駈けつけてきましたが、もう止めようもありません。乱闘一時間余り、島村方は多数の怪我人を出して引き上げました。
さて、この後始末がまた面倒になりました。「下手人はだれだれか。」という調べです。この時、七十、八十の老人ばかりたくさん出て来て「やったのは私です。」「私もやりました。」と口々に言うのです。でも年寄りばかりですから引っ立てることも出来ません。こうして喧嘩の後始末はうやむやになってしまいました。
こんな事があってから、部落ではお金を出し合ってこの土地を買い取りました。樟に鋸を入れた島村方では、病人が出るなどつぎつぎと良くない事が続いたので、大正十年敷地の入口に『樟大明神云々』という碑を建ててお祀りをしたということです。