はるの昔ばなし
帰ってきた石地蔵
弘岡下西堀池の西のはずれ、こんもりした木立の中に、二間に二間半の古びたお堂があります。
中には地蔵様がお祀りされていますが、高さ七、八十センチ程の石に浮き彫りに彫ったもので、素朴な美しさをたたえています。
言い伝えによると、四百年程前、用石の満願寺の坊さんが全国を回って修行するうち、病を得てここまで帰り、郷里を目の前にしてここで息を引き取りました。里人がこれを悼んでこのところに建てたのがこの地蔵様だといいます。
かん気・熱病など子どもの病気に効めがあるというので、大正の頃まではお詣りの人もなかなか多かったといいます。旧六月二十三日が縁日〔えんにち〕ですが、出店が二、三十軒も並ぶという賑やかさであったようです。新川の玉野菓子店先代の主人も
「私も縁日のたびに店を出しましたが、東の道路までずっと出店が続いていました。」
と言っていました。
明治の初め、一時この地蔵様が見えなくなった事があります。盗まれたのです。手分けして探していると、浦戸にあることが分かりました。一番近くの北村某さんを中心に四、五人で取返しに行くことになりました。屋形〔やかた〕舟で新川川を下って行きました。その時分は、新川川は屋形舟や大形の荷物舟が盛んに上下していました。取返しの屋形舟は下へ下へと行きましたが、行くにつれて舟が重うなって沈みそうになり大変困りました。
浦戸で首尾よく石地蔵を取り返し、某さんがスケで負うて舟に乗りました。こんどは石のぶんばあ重いはずなのに舟足はとても軽く、みんな上きげんで帰って来ました。定めしお石蔵さんも早く帰って来たかったからでしょう。
こんなに大事にしていたのに不心得者もいるもので、一人の悪童〔あくどう〕がある日
「地蔵、シーしゅむか。」
と言って頭から小便を引っかけました。たちまちその親は頭も上がらぬ病気になりました。毎晩毎晩熱にうなされ、夢の中で坊さんに叱られ通しだったといいます。
こんな事があってからお堂を建てて祀ることになり、今のところにお祀りするようになりました。ちなみに現在のお堂は戦時中に改築したものであり、堂守をしている『お地蔵のいっちゃん』こと北村祥吉さんは、某さんの曾孫に当るということです。
新川川…しんかわがわ。春野の中央部を東西に流れる川で、野中兼山の政策によって近世前期につくられたものです。この川は浦戸湾まで続いており、水運路として大いに活用されました。