はるの昔ばなし
中道のおさばいさま
荒倉〔あらくら〕街道といえば年輩の人には懐しい響きがあると思います。今はさびしくなっていますが、昭和の初め頃までは高知へ通じる唯一の街道で、人通りもなかなか多かったものです。
この街道に沿った笹谷〔ささだに〕部落の東の方の田んぼの中に、小さなおさばいさまがあります。宝永五年に深酒がもとで亡くなった倉一総衛門〔くらいちそうえもん〕という浪人の墓所であるといわれていますが、中に墓石のようなものは見当たりません。
総衛門は六代藩主山内豊隆に仕えて膳部方奉行を勤めていましたが、大の酒好きで、朝晩に腰元を通じて主家の酒をくすねていたようです。遂にそれが露見、浪人の身となり、荒倉に小屋を建てて住むことになりました。しかしそれからも酒から離れることが出来ず、とうとうこの湿地帯――人びとは中道と呼んでいますが――で深みにはまりこんで死んでしまったということです。
こうした事から、人びとはこのおさばいさまに手をつけることや、酒を飲んでここを通ることを大変恐れていました。
大正の中頃、弘岡中ノ村の村長をしていた前田繁信〔しげのぶ〕さんは、家が笹谷にあるものだからよくこの道を通りました。村長さんといえばとかく酒付き合いの多いものですが、この前田さんつい一晩酔ったままそこを通ったのです。
曲がりくねった田んぼ道を自転車を押していましたが、おさばいさまのあたりまで来ると自転車がどうにも動かなくなりました。ふと見ると真っ黒な大男がハンドルをつかんで沼地のところへ引きこもうとしているのです。二分──三分――、とうとう前田さんは沼地の中へ引きこまれてしまいました。
あくる朝、自転車はありましたが、下駄は両方とも見付かりませんでした。
「飲んだ時には中道は通られんぞよ。引きこまれるけん。」
と前田さんは客ごとのたびにそう言っていました。
前田さん以前にも引きずりこまれた人が何人もいるということです。
膳部方奉行…ぜんぶがたぶぎょう。料理係とみられます。
腰元…こしもと。本来は上流の商家に使える侍女ですが、ここでは武家方の奥向きに使える女中〔じょちゅう〕のことと解釈されます。