はるの昔ばなし
さき網
五、六十年程前のこと、弘岡上のやはた様の近くに彦さんという漁師がおりました。子どもの時から大の漁好きでしたが、若者になってからは場所勘が抜群で、夜釣りや夜の網打ちを得意中の得意としておりました。
ある夏の初め、前の日から降り続いていた雨に、その晩は風も添うて、少し不気味な晩でしたが、「こんな晩はきっと魚が寄っているぞ――」と、彦さんは投網を肩にして仁淀川へ出掛けました。
川岸へ着くと、水かさも水の濁り具合も上々です。いわ玉をさばいて一方をひじに掛け、一ふりしようとした時、彦さんの頭めがけてザーッと網を打って来た者があります。「あぶないッ」と彦さんは飛びのきました。
こんどは彦さんが得意の一網を入れましたが、小魚一匹はいっていません。こんな筈はないが、と思いながら、少し上手へ移りました。
二番網を打とうとした時、またもやザーッと音がして網が飛んで来ました。彦さんは背中がゾーッとしました。しゃがんで向こうをすかしてみましたが、人のけはいは全然ありません。
こんどは半ばこわごわで三番網を打とうとしましたが、それより早く頭の上へ物凄〔ものすご〕い網音!「こりゃケチだ」と彦さんは急いで岸へ上がりました。
彦さんは後をも見ずに走りました。自分でもガタガタふるえていたのが分かりました。家へはいるなり
「かかさんよ、早う戸をしめて――。」
と言ってばったり倒れました。
あくる日、近所の年寄りに一部始終を話しますと
「こわい事じゃったのう。そりゃさき網というてのう、網打ちや夜釣りに行って死んだ人がよう浮かばんで取り殺しに来たがぜよ。」
と言ってくれました。
それから後、彦さんは荒れた天気の時は漁に行かなくなったといいます。