はるの昔ばなし
天渦の主
西畑のあまど、天渦と書きますが、そこは仁淀川の曲がり角になったところで、川水が岩に突き当って大きな渦を巻き、物凄い渕となっています。昔から天渦の底には大きな主がいるとか、底は秋山種間寺の池に通じているとか言われていますが、とにかくぞっとするような渕です。
「主は大きな鯉じゃという人もあるし、いや、もっとこわい得体の知れんものじゃと言う人もあるけんど、誰も正体を見た人はないようじゃ。」
と、土地の人は言い伝えていました。
明治になる少し前のこと、西畑に元さんという若い衆がおりました。豪胆〔ごうたん〕で泳ぎ達者でありましたが、「俺が一つ潜ってみる」と言い出しました。
「そりゃあぶない」
「昔からそん事をした人はないき、やめちょき」
と、友人達は口ぐちに止めましたが、元さんの決心は変りません。
やがて天渦に潜る日が来ました。友人達も数隻の舟を出して見守っていました。
「早う上がってきいよ。」
「主に食われなよ。」
などという友人の声を後に
「いくぞーッ。」
と大きく叫んだ元さんは、あいくちを口にくわえてざぶんと飛びこみました。大きな渦は幾度か元さんを押し返しましたが、やがて元さんの体はまっ暗い渕の底へ沈んでいきました。
三分……五分……元さんは上がって来ません。ただ大きな泡がぶくぶくと上がって来るばかりです。――折から、太陽はすっかり見えなくなりました。人びとは不安でたまりません。
「もう駄目だ。」
と人びとはあきらめかけました。
その時です。元さんが浮き上がって来ました。でも顔はまっ青、体はぐったりとして死んだようになっていました。すぐに舟に引き上げました。みんなで「元さーん、元さーん」と呼びましたが息を吹き返しません。陸に運びました。それ焚火よ、それ人工呼吸よ、とやっていると、ようよう元さんは生き返りました。しかし元さん手を横に振るばかりで渕の底のことは一言も話そうとしませんでした。
春風秋雨五十年――。それから五十年の歳月が経ちました。あの時以来人が変ったように静かな人になっていた元さんも、白髪のおじいさんになっていました。
その元さんがある日、病気の床で
「わしの命ももうこれまでじゃき、あの時の話をしておきたい。みんなよう聞いとうせよ。」
と言いました。家族の者は枕元に集まってきて、元さんの話に聞き耳を立てました。
「――底へ底へと行きよったら、奥の方に十畳敷ばあの広間があった。ふと見るとその隅っこに何やらわからんまっ黒いものがおった。」
と言って元さんは一息つきました。
「これが主にちがいないと思って近づいてみると、それがどだい気味の悪い声で『こらッ早う出て行け。さもないとお前の命はないぞ。俺を見たことは人に言うてはならんぞ。もし言うたらその場でお前の命を貰う』と言うたもんじゃ。わしはそれっきり気を失うてしもうた。わしはみんなに助けて貰うたけんど、あれがこおうて今までよう言わざった。」
元さんはこう言い終ると、長い間胸に包んでいたものを言うてしもうて安心したせいか、がっくりとなって息を引き取ったといいます。
こうした謎を秘めたまま、天渦の渕は今も大渦を巻いています。