はるの昔ばなし
須賀の恩人
元禄も終り近い頃、ある秋の一日、西畑天渦のはなを一人の武士が通りかかりました。里人がしきりに舟を寄せているのを見ていましたが、鯉狩りが始まると聞いて「傷心の時の一興〔きょう〕……」と、ここで足を止めました。
この武士は松下高重といい、山内公に仕えて組頭をしていましたが、ある事件がもとで城下を立ち去ることになり、幡多郡中村をさして行くところでありました。
高重の祖父は遠州掛川の人で、一豊の土佐入国に随〔した〕がって高知に来たもので、孫高重も体格、武芸共に優れ、侍仲間から大いに尊敬されておりました。妻女もまた稀〔まれ〕なる美人で二人の仲は人も羨〔うらや〕む程でありましたが、魔がさしたといいましょうかこの妻女が他の若い組頭と人目も忍ぶ仲になっていたのです。
火のように怒った高重はすぐに男を呼びつけ、妻女諸共〔もろとも〕重ね斬りにしましたが、私の恨みとは言え同じ家臣を手に掛けた責任をとり、藩主豊房公に暇乞〔いとまご〕い状を出して高知城下を後にしたのでありました。
西畑で乞われるままに住みつくことになった高重は、持ち前の侠気〔きょうき〕から土地のために尽くすようになりました。当時仁淀川は洪水のたびに流路が変り、西畑から新居にかけてのデルタ地帯はいつも争いの種になっていました。高重は才畑側の代表となって土地争いに当りましたが、高重の交渉によって得た土地は“拾い物”だというのでみんなに喜ばれました。「平江の須賀」とか「平床」という地名になって残っているのがこれです。
里人の好意で岐〔ふなと〕の東側に大きな家が出来ましたが、明治になって取り壊した時、百二十五番と書いた柱があったというのですから、どれ程大きかったかがわかるでしょう。
高重は晩年猟に行った時転び、それがもとで寝込むようになりました。「わしが死んだら是非共西畑の中州の見えるところへ埋めてくれるように」という遺言により、遺骸〔いがい〕は天渦の山の上の一番高いところへ葬りました。
頂上五十坪程の平らになったところに大きな石塔があります。蔓〔つる〕や茨〔いばら〕に覆われて仲なか近付けませんが、戒名のほかに『宇多〔うだ〕源氏佐々木末裔〔まつえい〕松下友仙高重〔ゆうせんたかしげ〕』『元文二年四月二十九日病死、行年七十一才』と刻まれています。また、その近くに子孫と思われる人の墓が五基建っています。
元禄…げんろく。1688~1704年
豊房…とよふさ。第五代藩主。寛文12(1672)年~宝永3(1706)年。